創刊号を読み解く
あの雑誌の創刊号に映るものとは?創刊号蒐集家たまさぶろが分析

創刊号を読み解く 第5回 - 03(ゼロサン)
創刊号マニア、たまさぶろによるコラムの第5回。今回は、1989年12月創刊で1991年11月に休刊した新潮社のカルチャー誌『03(ゼロサン)』を取り上げる。同誌の創刊号は、映画監督・プロデューサーのスパイク・リーが表紙を飾り、いとうせいこうや高城剛、高木完、藤原ヒロシ、山田詠美らが「ニューヨークに未来はあるか」と題して当時のニューヨークのクラブシーンについて語る特集など、グローバルな視点で当時最先端のサブカルチャーを発信している。たまさぶろが「これほど楽しい雑誌はない」と語る同誌は、当時の空気とともに、30年という歳月のあっけなさも伝える。

創刊号を読み解く 第1回 - Hanako
東京は活字文化の中心である。特に雑誌は、日本で発行されるそのほとんどが東京で発行されているとして過言ではない。 私は、学生時代から「創刊号マニア」を自称している。平成が終焉(しゅうえん)を迎えようとしている今、200冊以上の創刊号が積み上がる書庫を眺め、「この子たちに陽の目を当ててあげなくては」と考えた。記念すべき初回は、有名女性誌のHanakoを取り上げる。首都圏在住で現在40〜50歳あたりの世代の女性で、この雑誌を手にしたこのない人はいないのではないか。 本誌は、1988年6月2日号として創刊。発行人は「当然」木滑良久(きなめり・よしひさ)、編集人は椎根和(しいね・やまと)。20代の未婚女性がターゲットの週刊誌として創刊された。 当時の「週刊誌」といえば、オジサンの牙城、もしくは『週刊女性』や『女性自身』のように「パーマ屋に通っている」ような女性を読者層としていた、いまひとつ垢抜けない雑誌カテゴリーに過ぎなかった。しかし、本誌は時代に先駆け、若い女性読者を取り込み「ハナコ族」、「ハナコ世代」という言葉まで生み出した。 木滑は、出版界で「超」をいくつ付けたら良いか分からないほどの著名人だ。1965年以降、『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』など、同社の屋台骨とも言える各誌で編集長を務め、『Hanako』創刊も主導。1988年には代表取締役に就任した。現在は、同社の最高顧問を務める。私にとっては雲の上の存在で、当時の雑誌編集者を目指す輩は、「木滑さんのような編集長になりたい」とさえ思ったもの。Hanakoは、彼が現場に介在した最後の雑誌だろう。 タイトルロゴと表紙は、オーストラリアのアーティスト、ケン・ドーンの手による。タイトルロゴについては、現在発行されている同誌でも踏襲されている。 創刊号の内容に目を通すと、特に目を引くような新しさはない。それまでの週刊誌同様、雑多なネタが並ぶ。ただし「若い女性向けに」だ。表紙を見て分かる通り、謳(うた)われている特集は「いい部屋はステイタス すぐ借りられます。厳選27ルーム」とあるだけ。特に華々しい企画でもない。 表紙をめくると、表紙裏は資生堂の『フェアウィンド』というファンデーションの広告のみ。当時はバブルの絶頂期。広告も極めてコンベンショナルで、かつ広告量も非常に控えめだ。むしろ、現在の同誌のほうが広告は目立つ。 目次は、「今週いちばんエキサイティングなニュース」「事件、風俗etc……好奇心100%のライフ・リポート」「観て、聴いて、感じて……東京エンタテインメントガイド」と、非常に多様なラインナップ。 特集の厳選27物件で取り上げるエリアは、銀座や六本木が並ぶのかと思いきや、当時はまだ話題にもならなかった田園都市線青葉台から始まり、国分寺、与野、池袋、田園調布、日暮里、麻布十番(当時、駅はない)、学芸大学、南阿佐ヶ谷、中井、田町、みずほ台、玉川学園、百合ヶ丘、若林、幡ヶ谷、北久里浜、方南町、梅ヶ丘、市川……と意外と地味だ。少なくとも、バブルのキラキラ感はどこにもない。 ひどくおとなしい。創刊号の時点では、「Hanako族」などと揶揄(やゆ)されるほどの派手さはまだない。強いて言えば、99ページから、平野レミ、片岡義男、安西水丸などがグルメエッセイを執筆している点などには、その片りんがある。巻末は、星座占い、そして、中野翠のエッセイで終わる。 表3(裏表紙裏)の広告は、武田薬品の口臭予防ABB『ミン