創刊号を読み解く 第5回 - 03(ゼロサン)

あの雑誌の創刊号に映るものとは? 創刊号蒐集家たまさぶろが分析

作成者: Kunihiro Miki |
Advertising

タイムアウト東京  アート&カルチャー > 創刊号を読み解く > 第5回 - 第5回 - 03(ゼロサン)

創刊号マニア、たまさぶろによるコラムの第5回。今回は、1989年12月創刊で1991年11月に休刊した新潮社のカルチャー誌『03(ゼロサン)』を取り上げる。同誌の創刊号は、映画監督・プロデューサーのスパイク・リーが表紙を飾り、いとうせいこうや高城剛、高木完、藤原ヒロシ、山田詠美らが「ニューヨークに未来はあるか」と題して当時のニューヨークのクラブシーンについて語る特集など、グローバルな視点で当時最先端のサブカルチャーを発信している。たまさぶろが「これほど楽しい雑誌はない」と語る同誌は、当時の空気とともに、30年という歳月のあっけなさも伝える。

新潮社唯一のサブカル雑誌

「03」と聞いてピンと来る人は、立派な都市生活中毒者と言えよう。さらに雑誌のタイトルの方を思い出す人は、出版業界の者でなければ、よほどの雑誌マニアに違いない。

「03」はもちろん、東京の市外局番である。その名を冠した雑誌が、短い期間だがかつて新潮社から発行されていた。

『TRANS-CULTURE MAGAZINE 03 TOKYO Calling』と題された本誌は1989年12月号が創刊号。同社では珍しい、デザイン性も重視したサブカルチャーマガジンだった。1896年創業の老舗出版社の歴史のなかで、サブカルを扱ったのは本誌が最初で最後ではなかろうか。編集・発行人は吉武力生(よしたけ・りきお)。アートディレクターは、駿東宏(しゅんとう・ひろし)。

新潮社はむしろ、ハイカルチャー側に立つ文化の担い手であり、その中からマイノリティーの声であるサブカルマガジンが誕生したことは、当時の出版界でも驚きを持って迎えられた。各号ごとに東京に比する世界都市のサブカルを切り取り読者に届ける……。それが創刊当初のコンセプトだったろう。

1989年のスパイク・リー、クラブシーン

創刊号はニューヨーク特集で、表紙はスパイク・リーだ。「スパイク・リー=サブカル」の図式は理解できる。むしろ、トランプ大統領が示して見せているように、黒人が依然としてアメリカ社会においてマイノリティである現在では、彼のサブカル、カウンターカルチャーとしての立ち位置は一層際立っている。彼が描き出す映画のモデルは、今なお少数派の庶民たちだからだ。

しかし、彼の監督作品のセリフを100パーセント理解できる日本人はどれほどいるのだろうか。ニューヨーク在住時代、彼の映画を観た後、「半分も分からなかった」とネイティブニューヨーカーの短編小説家にこぼしたところ、「十分じゃないの。私は30%しか理解できなかった」と笑われたものだ。

ほかのページでは、ニューヨークの、特にクラブシーンにも焦点を当てている。クラブについて、いとうせいこうや高城剛、高木完、藤原ヒロシ、山田詠美らが語る。当時の『新潮』読者には十二分にサブカルだっただろう。

Advertising
4ページはトヨタ・カローナ・エクシブの広告。広告にサブカル色は皆無だ

ベルリンの壁崩壊をまたぐも……

対面の5ページは目次。「ニューヨークに未来はあるか 世紀末都市のカルチャーマップ」とある。本誌が創刊された頃、世界は大きな波に飲まれた。1989年11月にはベルリンを東西に隔てていた壁が崩壊。地球を真っ二つに割っていた冷戦は終わり、同時多国間関係が始まろうとしていた。

そんな時代の波が世界を覆った折、クラブシーンだけを切り取ってしまったサブカルマガジンは運が悪かったともいえるだろう。もちろん、スパイク・リーのインタビューはそれだけで興味深く、創刊の価値があった。これが手元に残り、読み返すことができるだけで僥倖(ぎょうこう)というもの。ただし、せっかくの絶好機だけに、世界の潮流にまで言及できたら、さらなる高みを望めたはずだ。もっとも、内容変更が間に合わなかったことを残念に思ったのは編集側だったに違いない。

中綴じセンターには『サントリー山崎』の見開き広告。「なにも足さない。なにも引かない。」のキャッチコピーが印象的だった。今ではすっかり入手困難になってしまったジャパニーズウイスキーの『山崎』も、当時の価格はまだ7,500円。新入社員でも一本手に入れるに苦労することはなかった。

Advertising

後半には、スパイクの実弟サンキ・リーも共同石油のタイアップページで登場する。久保田利伸のインタビューページの舞台は西新宿公園。背景には、まだ10階建てくらいの高さしかない建築途中の東京都庁が写っている。

現在の都庁が存在しなかった新宿を想像するのは、今となっては難しい。

秋元康、中島みゆき、赤川次郎……豪華な執筆陣

さすが新潮社……と感心するのは、豪華な執筆陣である。秋元康、中島みゆき、氷室冴子、赤川次郎、ピート・ハミル、椎名誠、野田秀樹などなど。中島みゆきの小説にはちょっと驚いた。本誌では『バードランド サーカス』というタイトルだが、1991年10月に単行本化された際は『この空を飛べたら』というタイトルに変身。中島みゆき研究家の間では、本作の加筆に中島みゆきの言語感覚が見て取れる貴重な資料でもあるらしい。

Advertising

私が個人的に楽しみにしていた連載は、野田の「この人をほめよ」。毎回、いろんな人、テーマを取り上げては褒めるのだが、そこは野田節が炸裂。褒めているのか、けなしているのか、おちょくっているのか……そんな妙が、雑誌の最終ページを飾っており、安心感を覚えた。このエッセイも後に単行本化。手に入れて読み直したものだ。

表4は日産の「超新感覚スカイライン」。やはり広告はサブカルではない

現代にこの雑誌が再登場したら……

この年の始めには昭和天皇が崩御、平成がスタートした日本にとっても時代の転換期に当たる。本誌はその後、創刊2号1990年1月号で中国返還前の香港、2月号はロンドン、3月号でパリ。4月号でついに激変したベルリンを取り上げた。5月号が京都、6月号はアジアの南の島、7月号では天安門事件から1年後の北京に焦点を当てた。現在の中国では発禁ものだろう。その後、創刊1周年の12月号で東京に戻った。こうしてなぞっただけで、世界の混迷具合は20世紀も21世紀もあまり変わり映えしないようだ。

残念なことに、本誌はさらにこの1年後に休刊。業界では、広告を取るのが難しかったため……というのが休刊の理由と囁(ささや)かれた。確かにこうして創刊号を読み返すと、サブカルな誌面と上場企業の広告のミスマッチは手に取るように分かる。

休刊までわずか24冊。さぞや担当者は悔しかったのではないか。読んでいてこれほど楽しい雑誌は、出版がこうも斜陽産業になってしまっては、もう現れないかもしれない。いや、今一度、現代にこの雑誌が再登場したらどんな興味深い内容に仕上がっただろうか。夢想は尽きない。

たまさぶろ

1965年、東京都渋谷区出身。千葉県立四街道高等学校、立教大学文学部英米文学科卒。『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後に渡米。ニューヨーク大学およびニューヨーク市立大学にてジャーナリズム、創作を学ぶ。このころからフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社にてChief Director of Sportsとしての勤務などを経て、帰国。『月刊プレイボーイ』『男の隠れ家』などへの寄稿を含め、これまでに訪れたことのあるバーは日本だけで1500軒超。2010年、バーの悪口を書くために名乗ったハンドルネームにて初の単著『【東京】ゆとりを愉しむ至福のBAR』(東京書籍)を上梓、BAR評論家を名乗る。著書に、女性バーテンダー讃歌『麗しきバーテンダーたち』、米同時多発テロ前のニューヨークを題材としたエッセイ『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』。「あんたは酒を呑まなかったら蔵が建つ」と親に言わしめるほどの「スカポンタン」。MLB日本語公式サイトのプロデューサー、東京マラソン初代広報ディレクターを務めるなどスポーツ・ビジネス界でも活動する。

Advertising