針で引っかいて音を出すというアナログなレコードの手法に、ジャズの音は非常に合う。そして、そこにアルコールが加われば言うまでもない。
本記事では、モダンやニューオリンズジャズを流す老舗はもちろん、フリーやDJカルチャーを通過した新時代のジャズを流すヴェニューも紹介。ジャズという音楽の奥深さにきっと気づかされることだろう。もちろん深いことは考えず、ただ音に身を委ねるのも一興だ。本記事で新たな出合いがあることを願う。

タイムアウト東京 > 音楽 > 「よく弾けたなんて日はなかった」96歳のジャズジャイアント・秋吉敏子が語る現在地
御年96歳。日本ジャズ界のレジェンドであるピアニスト・秋吉敏子が2026年8月23日に「東京芸術劇場」で開催された「METROPOLITAN JAZZ -The Jazz Legacy-」に出演した。チェット・ベイカー(Chet Baker)やビル・エヴァンス(Bill Evans)と同じ1929年生まれでなお、ステージに立つ姿を観るだけで胸がいっぱいになる。
モダンジャズの始まりである「ビバップ」に日本で取り組んだ最初期の一人であり、日本人として初めてアメリカの名門音楽大学であるバークリー音楽大学に留学し、自身のビッグバンドを率いて日本の要素をジャズに持ち込んだ人——秋吉の音楽的功績を達成する日本人は今後現れないかもしれない。
そんな彼女にインタビューする機会を得た。意外にも、スイーツを食べながら「おいしい」とはしゃぐ姿がかわいらしい。しかしジャズについて聞くと、きりっとした表情で語り始める。10代からジャズに身を投じた真のパイオニア、その言葉には説得力があり過ぎた。
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—今、日本のジャズ史ではモダンジャズが始まったスタイル「ビバップ」を最初に弾いた日本人の一人が、秋吉さんだとされています。
それまではラグタイムを除くと、ジャズはみんな歌曲を演奏していたわけです。それが楽器曲に変わった。だから私に言わせると、ビバップはジャズにおけるルネッサンスの時期なんです。ある意味で革命ですね。
ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)やJ・J・ジョンソン(J. J. Johnson)とか、彼らがそういう楽曲を書いた。ただJ・J・ジョンソンは残念ながらハリウッドの作曲家になってしまうんです。お金持ちになれたからいいのでしょうけど、我々は彼を失いましたよ。あと、ベニー・ゴルソン(Benny Golson)も『Stablemates』などの名曲を残しています。私は彼の奥さんが好きでした。
—ガレスピーと並んで、ビバップの創設者だといわれるチャーリー・パーカー(Charles Parker)は?
チャーリー・パーカーは即興演奏家でしたね。私は、実際に会ったことも生で聴いたこともありません。ディジーは、作曲もするインテリ。私に編曲を頼んでくれたんですよ。それで、家に来て曲を選んでいる作業の途中でしたが、1993年に亡くなりました。残念でしたね。
ディジーが私にそう言ってくれた理由は、1985年に野外音楽堂「ハリウッド ボウル」で行われた彼のトリビュートコンサートだったと思います。ディジーの曲を演奏したのは私たちだけ。あとの連中は、みんな自分たちの曲をやっていましたよ(笑)。
彼は女性をあまり信用しない人だったんですけどね。昔はバンドにメルバ・リストン(Melba Liston)というトロンボーンを吹く女性がいて、彼女は編曲もしていました。
—日本におけるビバップの最初の一人として、ピアニストの守安祥太郎さんも数えられますが、彼のことで覚えていることはありますか?
守安さんという人は、我々より少し年上で「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼ばれて親しまれてましたね。電車の前に飛び込んで亡くなったんです。ときどき寝転んで弾いたりしていました。覚えているのはそれくらいです。ピアニストが、ほかのピアノの人の演奏を聴くチャンスはあまりないので。
—当時、まだ音大もカリキュラムもない時代に、ジャズをどのように勉強したのですか。
あの頃は、音楽を聴く方法がレコード以外に何もない時代ですから、ジャズ喫茶で聴いて曲を覚えるしかありません。横浜なら「ジャズ喫茶ちぐさ」に入り浸りでしたね。「もう1回かけてください」とお願いすると、すぐにマスターの吉田衛さんが「いいよ!」とかけてくれるんですよ。アセテート盤だったから、私のせいでレコードをすり減らしてしまったんじゃないかと思います。
横浜は縁があるところで、昔はあそこにアメリカ軍の基地やキャンプがあって、そこに招集された中にハンプトン・ホーズ(Hampton Hawes)という有名なピアニストがいたんですよ。「弾いてください」と言うとすぐ弾いてくれて、彼からだいぶ習いました。私を横浜のクラブに雇ってくれたけど、あの人は麻薬中毒者で寝ながらたばこを吸うから、落ちた灰でズボンに穴がボコボコ開いてましたね(笑)。
あと、私がジャズ喫茶で音楽に聴き入っている姿をスケッチしてくれた画家の軍人もいました。その絵は今も家にありますよ。目がすごく大きく描かれてて、面白いです。
—東京だと?
東京だと有楽町の「コンボ」。店主が小柄だから「ショーティー」と呼ばれてましたね。横浜はちぐさ、東京はコンボ。そういったジャズ喫茶で曲を覚えました。
—秋吉さんは1956年に渡米されますが、その前は日本でどんな活動をされていましたか?
テナーサックス奏者の与田輝雄さんの「シックス・レモンズ」というバンドに入っていました。ドラムは、後にコメディアンになったフランキー堺さんで。あとはアメリカから来日するバンドが、よく私をゲストとして雇ってくれました。
そんなある日、オスカー・ペティフォード(Oscar Pettiford)というすごいベーシストのグループが、J・J・ジョンソンとテナーサックス奏者のルーディ・ウィリアムズ(Rudy Williams)を連れて、「慰安USO(米国慰問協会)」のツアーで日本に来たんですよ。オスカー以外の何人かが演奏を観に来てくれて、その連中に「マイルス・デイヴィス(Miles Davis)はどうしてる?」と聞いたら、「マイルス好きなの? へえ。彼は今、仕事してないよ」って。
『バイバイ・ブラックバード』がヒットするまで、全然仕事がなかったみたいですね。ジョン・コルトレーン(John Coltrane)がマイルスから習ったレッスンの一つは「ポピュラーなものを材料にする」ということだったと思います。それが彼の『マイ・フェイバリット・シングス』になる。
あと、渡辺プロダクションを作ったベーシストの渡辺晋さんが世話をしてくれましたね。西銀座にできた日本最初のジャズクラブである「コーヒーショップ テネシー」で「夜は僕たちが出るから、昼間はあきちゃんが誰かを集めてクインテット(5人編成のバンド)くらいでやったらいいよ」と仕事をくださったんです。
—ピアニストのオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)が秋吉さんの演奏を観に来たという逸話がありますが、それについて改めて教えてください。
「テネシー」で昼間に宮沢昭さんと、まだ若い渡辺貞夫さんのサックス2人を入れたクインテットで演奏してた時、誰かがノーマン・グランツ(Norman Granz)が主催する「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」のメンバーとして来日していたオスカー・ピーターソンを連れてきて。彼の勧めで私の最初のアルバム『トシコズ・ピアノ』のレコーディングにつながったんですよ。
だから、何事も機会なんですね。昼間の仕事がなかったら、オスカーが私の演奏を聴くチャンスはなかったし、レコーディングもありませんでしたから。その録音のおかげで、バークリー音楽大学に奨学生として入学できたんです。日本人がジャズを演奏するっていうことだけでも「本当かいな」という時代で、それが女性となるともう大変でした。
—長く演奏してきた中で、一番思い出に残っている瞬間は?
分からないですね……。もしかしたら1964年にパリの「ブルーノート」での公演に、バド・パウエル(Bud Powell)が聴きに来た時かもしれませんね。
—1957年に発表されたアルバム『The Many Sides of Toshiko』に収録されているオリジナル曲『Studio J』を褒めて、「君は最高の女性ピアニストだ」と言った日ですね。秋吉さんが「その言葉に支えられた」というエピソードが感動的でした。
彼は、1957年ぐらいにニューヨークの「ヒッコリー ハウス」に出た時も聴きに来てくれましたよ。あと一つだけ言えることは「ああ、よく弾けた!」なんて日はありません。いつも「なぜ、あんなことばかりやったんだろう?」みたいな、必ずそういう後悔が演奏の後に残るんです。これは私だけじゃなくて、多分みんなそうじゃないかと思いますけど。
—秋吉さんは1973年からビッグバンドを結成して、そちらの活動をメインにされていましたが、大編成での音楽にシフトした理由はあったのでしょうか。
必ずしもビッグバンドをやりたかったということではなかったんですけどね。私は社会の中のいち人間で、そこで起こることに興味があるんです。ジャズプレイヤーだから、それをジャズの音楽で表現したいという気持ちがあった。でも、ピアノだけではうまく表現できないというわけで、ビッグバンドになりました。つまり、色がたくさんあるということです。
私はナチュラルなミュージシャンじゃなくて、すごく苦労してやっと曲ができる人間なんですよ。だから、100パーセントのエネルギーを全部書く方に注いだらバンドができて、そうしたらみんなが注目して、という流れで徐々にピアノの方がおろそかになっていきました。
毎週月曜日にクラブに出て、1セットは4曲か5曲。2セットあると、ソロのない連中がかわいそうで「私のパートをあげるよ」って。そんな調子で、だんだん私は曲中でソロを取らなくなったんです。
—なるほど。
そうしたら、ヨーロッパから来た女性が「Can you play the piano?」って聞いてくるわけ。そこで考えて「ああそうだな、やっぱりピアノに戻らなきゃ」と。だからビッグバンドを解散したんです。解散した時にはみんなびっくりしましたね。非常に評判のいいバンドでしたから。
うちには地下室とリビングにピアノがあって、地下室は夫のルー(ルー・タバキン、Lew Tabackinのこと)のセッション用のスタインウェイ、リビングは私の練習用のヤマハなんですよ。ヤマハは普通より鍵盤を重く設定してもらっています。バレリーナが毎日踊るように、ピアニストは毎日鍵盤を押さなきゃいけないんです。
曲を弾かなくてもいい。押さなきゃいけない。1日押さないと「Pay the price(ツケが回る)」ってやつで、指の筋肉はすぐなくなっちゃいます。昔は学校に行く前にピアノを弾いて、母から「遅れますよ」と言われるぐらいギャーギャー弾いてたんですけど、今は仕方なく座らないと「Pay the price」というわけ(笑)。
—ビッグバンドを始めた時、「社会的なことを表現するのに色がたくさん必要だった」というお話でしたけど、1970年代にほかのジャズミュージシャンはロックに影響されたり、フリージャズをやったりしていたじゃないですか。
そうだったんですか? あなたの方が詳しいと思いますよ。
—そうだったはずですが……(笑)。例えば、ジョン・コルトレーンなどはフリージャズに傾倒していきましたが、そういう時代の動向から影響は受けませんでした?
私が影響を受けたのは、バド・パウエルです。コルトレーンって人は、私の後から出てきた人ですからね。ただ、彼はある意味でジャズを改革したと言ってもいいかなと。コールマン・ホーキンス(Coleman Hawkins)系の連中ばかりだったら、白人のプレイヤーは希望がなかったと思いますね。まねできないから。
コルトレーンのプレイは誰でもできるスタイルなんですよ。アカデミックに近くなったと言えるのかな、前例があるから誰でもできるというか。ちょっと表現が難しいですけどね。それをちゃんと表現できる人間だったら、多分ジャーナリストになってたかもしれない(笑)。
—秋吉さんは「日本人である」という出自に向き合って活動してこられました。以前、名盤『Kogun』の制作について「日本人であることがジャズをやる上でのハンディキャップになる考えがあった」と回想されていますが、いまだに「日本人のリズム感はよくない」といった話もあるんですよ。
私は、あまりそういうことを考えたことがありませんね。例えば黒人がみんなスウィングするかって、そんなことないですから。全然スウィングできない黒人ミュージシャンも知っているし、私みたいなのもいる。リズムはあくまでも個人の問題だと思います。
昔は日本産のビールはなかったけど、作るようになってから日本のビールが有名になった。そういう感じで、何でも歴史が続くとユニバーサルになるんじゃないでしょうか。日本に長く住んで、尺八プレイヤーになったアメリカ人もいます。
—先日「METROPOLITAN JAZZ -The Jazz Legacy-」で一緒に演奏した若手ミュージシャンたちはどうでした?
最近の若い人は、バークリーや音大を出た方も多いらしいですね。ただ、ジャズプレイヤーは学校に行っても仕方ありません。プレイしないと。できることなら、自分よりうまい連中とプレイすることです。
あくまでもジャズはパーソナルなもので、「おデート」と同じで、例えば「プレイヤーA」と「プレイヤーB」を聴いていて、明らかにAの方がテクニックがあるけれども、私はBの方がいいなって感じることもある。これが、クラシックにはない部分ですからね。
おデートしてるのと同じようなもので、その人の癖とか、それが自分と合うっていうか。これがジャズのいいところなんです。
—恋愛とジャズで似ている部分があるのですか?
そこまでは考えたことがないですが……(笑)。ただ、学校が取り上げるようになって、個性的な音楽が少なくなってきてます。その辺がちょっと残念だと思うけど、歴史っていうのはそういうものですから。
—それでもジャズの本質は変わらない?
いや、ジャズはもちろん変わるでしょうし、もう変わっているかもしれない。
—確かに現代において、「ジャズ」と聞いてイメージする音楽は、人によって違うものになっています。ある人はビーバップ、ある人はフュージョン、またある人はヒップホップと考えるかもしれない。それについて、どう思いますか。
そうですね。何でも動くのが当たり前で。私なんかが思っているジャズも違うところに行ってますよ。やっぱりヨーロッパからの影響もあるんじゃないかな。ビバップも、何年も前にヨーロッパに行っちゃってますし。中世のバロック音楽みたいなソサエティになるかもしれませんね。
—では、秋吉さんの考える「ジャズ」とは?
ややこしい質問ですね。それに答えるには「ジャズ」という言葉自体がどういうことか、その言葉がいつ生まれたのか、そこから考えなければいけないのでしょうけど……。でも、ジャズは非常に個人的な音楽であり、その本質は即興演奏にあります。だから、あらかじめ作られたものじゃない。そこが私はジャズのいいところ、ジャズが芸術であるポイントだと思っています。
針で引っかいて音を出すというアナログなレコードの手法に、ジャズの音は非常に合う。そして、そこにアルコールが加われば言うまでもない。
本記事では、モダンやニューオリンズジャズを流す老舗はもちろん、フリーやDJカルチャーを通過した新時代のジャズを流すヴェニューも紹介。ジャズという音楽の奥深さにきっと気づかされることだろう。もちろん深いことは考えず、ただ音に身を委ねるのも一興だ。本記事で新たな出合いがあることを願う。
数多くのジャズライブハウスが点在している東京。毎夜都内で行われるジャズライブの数は50以上もあると言われている。それゆえ、初心者は店選びに迷い、敷居の高さに腰が引けてしまうことも多いだろう。ここで紹介するジャズハウスは、間違いなく訪れる価値のある場所なので、参考にしてほしい。
ジャズの鑑賞を主体に、コーヒーが楽しめるジャズ喫茶。その元祖は、1929年に本郷でオープンした「ブラックバード」だといわれている。
同時期でいえば、1933年に創業した横浜の「ちぐさ」は一度の閉店を挟みながらも、2022年まで約90年にわたって営業してきた。同店には、若き日の秋吉敏子や渡辺貞夫、日野皓正らジャズミュージシャンたちが足繁く通い、アメリカ軍のクラブでの演奏のかたわら、当時高価だったレコードを聴いて勉強していたという。もちろん、プレイヤーだけでなく、ジャズファンにとっても最新のジャズを仕入れられる場だったのだろう。
そんなジャズ喫茶は、日本におけるミュージックバーのルーツともいえるし、踊ることを主目的としていない「リスニングイベント」という概念の始祖でもあるかもしれない。2010年代以降のレコードブームや、漫画『BLUE GIANT』のヒット以降は、若い世代も以前より訪れるような印象を受ける。
本記事では、店主の音楽への真摯(しんし)な姿勢やアットホームな雰囲気、素晴らしいオーディオシステムをほこる店など、おすすめをピックアップした。ぜひ足を運んでみてほしい。
今年も阿佐ケ谷の街がジャズ一色に染まるイベント「阿佐谷ジャズストリート」が開催される。今年で30回目の今回はJR中央線の阿佐ヶ谷駅を中心に、駅前の広場、学校の体育館、幼稚園の園庭、教会、会社のロビー、区役所前の広場など多くの会場でジャズのコンサートが行われる。
パブリック会場や街中でスイングするのも良いけれど、せっかくなら歴史が染み込んだジャズバーで即興的なハプニングを目撃しよう。
今回は、タイムアウトに多くの音楽記事を寄稿するライター・小池直也が選んだ3件を紹介。イベントが開催される2025年10月24日(金)・25日(土)には各ヴェニュー独自のジャズイベントが開催されるので、ぜひ立ち寄ってほしい。
映画『BLUE GIANT』の主人公の演奏を担当した、サックス奏者の馬場智章と、現代ジャズシーンを支えているヴェニューの下北沢「No Room For Squares(ノールームフォースクエアーズ)」(以下:ノールーム)の店主である仲田晃平。プレイヤー、そして店のスタッフとして現場に立つ2人に、ジャズバーの楽しみ方について聞いてみた。
2025年9月22・23日の2日間開催されたノールームの6周年記念フェスティバル「音響特区」を控え、そして馬場の定期イベントである「BaBaBar」のリハーサル前という慌ただしいタイミングにもかかわらず、時間を取ってくれた2人にまずは感謝したい。
対談は、人生で初めていったジャズバーやいつも頼む決まった一杯などから、ジャズを取り巻く場についてまで話は及んだ。時間とお金をかけて、音楽とじっくり向き合う。そんな場に足を運ぶことこそ、贅沢な時間の使い方なのかもしれない。
週末といわず今夜、グラス片手にジャズを聴くために街へ繰り出そう。
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