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ルオーの記憶をひもとく「ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶」が汐留で開催

6月21日まで、門外不出「最後のアトリエ」の実物が初公開

Karin Minamishima
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Karin Minamishima
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ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima | 最後のアトリエの再現
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フランスの巨匠、ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)の作品を精力的に収集してきた「パナソニック汐留美術館」。同館では、2026年6月21日(日)まで企画展「ジョルジュルオー 最後のアトリエ」が開催されている。拠点を転々としながらも、ルオーがさまざまな人と出会い関わり続けてきた制作活動の軌跡をたどる。

また、新収蔵された作品『モデル、アトリエの思い出』の初出品に加え、ルオーが晩年、最後のアトリエで実際に使用していた画材道具や机などを用いて、アトリエの一部再現を試みる。家族でさえも立ち入りを制限されていたいわば聖域の記憶を、作品とともにひもといていく。

ジョルジュ・ルオーとは

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishimaアトリエで制作するルオー

ルオーは、1871年にフランス・パリで生まれた20世紀のフランスを代表する画家。厚く盛り上がった絵肌や、黒い線で区切られた内部に燃え上がるような色彩を配置する作風は、時代を超えて圧倒的な存在感を放つ。最愛の師との別れや2度の世界大戦など、苦難の中でもアトリエを転々としながら制作活動を続けた。

師に導かれたアトリエ 

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima左から『ゲッセマネ』『《ウォルスキ王トゥルスの館のコリオラヌス》のための習作』『《うすを回すサムソン》のための習作』。作品には、解剖学的な人体描写や古典主義的技法による線描、遠近法を用いた的確な描写が見られる

第1章では、画学生として芸術の道を歩み始めた頃の作品を紹介する。

1890年、画家になることを決意した19歳のルオーは「パリ国立美術学校」に入学。解剖学などのアカデミックな教育を受け、コンクールでの成功を目指した。

同時に、巨匠ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のアトリエにも入門。デッサン力を磨く一方で、ルオーはモローからマティエール(絵画表面の質感)の重要性や色彩感覚を学んだ。モロー作品の色彩やマティエールは、後のルオー作品と共鳴する。

学友が支えた「フォーヴ」の時代

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima「手品師 又はピエロ」(左)と「後ろ向きの娼婦」

モローの没後、ルオーは美術学校を退学。自らの力で画業を続ける決意を固めた。しかし、最愛の師を失った悲しみは深く、彼の体調にも暗い影を落とした。そんな時、学友たちや教室での思い出が、失意の淵にあったルオーを支えた。やがてルオーは、旧友たちの共同アトリエに通うようになり、彼らとの交流を再び深めていく。

この時代に「ギュスターヴ・モロー美術館」の初代館長を務めたルオーは、同じ通りにある小さなアトリエで制作を続けた。隣には印象派の画家、ピエールオーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)も住んでいたという。

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima左から『法廷』『流浪者の休』『裸婦』『アクロバット(軽業師 Ⅶ)』

彼の画家仲間の多くは、後に「フォーヴの画家たち」と呼ばれるようになる。「フォーヴ」とはフランス語で「野獣」を意味する言葉。荒々しく表現力豊かな作風や、色調そのものを指すようになった。ルオー自身の作風もまた、アカデミックな伝統から離れ、フォーヴの要素を含む独自のスタイルへと急速に変わっていった。

また、絵画のテーマも美術学校時代から変化。宗教や古典の物語を題材にした歴史画ではなく、娼婦やサーカスの芸人など「社会的弱者」と呼ばれる人々の困窮や悲劇的な場面を切り取った、当時のルオーにとってより身近なものが描かれるようになった。 

ヴォラール邸での制作

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima左から『裁判官たち』『道化師』『キリスト』

3章では1920〜1930年代について紹介している。この時代、ルオーは彼の画業を語る上で欠かせない存在である、画商のアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)の邸宅に制作の拠点を置いていた。ヴォラールはルオーのアトリエにあった作品を全て購入し、ルオーの主要な画商として1939年に亡くなるまで画家を支えた。

ヴォラールは1890年代から1930年代のパリで活躍した、当時最も革新的な画商の一人だった。ポール・セザンヌ(Paul Cezenne)、アンリ・マティス(Henri Mattise)、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)、そしてフォーヴの画家たちの作品を、彼らの名が知られていない時期から紹介し、国内外での評価を高めるうえで大きな役割を果たしたのだ。

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima『日本の武士』(左)と『女曲馬師(人形の顔)』では墨(チャイニーズインク)が用いられている。これ以降、墨はルオー定番の画材となった

この時期にヴォラール邸で撮影された写真にはルオー作品のほかルノワールの作品も写り込んでおり、ルオーが同時代の画家の作品に囲まれながら創作に向き合っていたことがうかがえる。

ヴォラール邸で制作に励んだこの時期は、同時代の画家たちの作品から刺激を受けながら、ルオーが独自の画風を探求していった重要な時代であった。この時代は、ヴォラール邸のアトリエを主な拠点としつつも、ルオーは親戚が住むブルターニュ地方のアトリエや、美術批評家でコレクターの福島太郎のパリやスイス・モンタナの滞在先などでも制作をした。

最後に構えたアトリエ

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima机に平置きされた作品たち。イーゼルを使わずに立ったまま複数の作品を同時並行で描いていたのではないかと推測されている

第4章で紹介されているルオーの「最後のアトリエ」は、同展最大の見どころといえよう。彼は第二次世界大戦中という厳しい環境の中でも、フランス国内を転々としながら絶えず制作を続けた。戦後、パリに戻ったルオーは、リヨン駅近くのアパートの一室に最後のアトリエを構える。ここから、『秋の夜景』や『キリストとの親しき集い』など、多くの傑作が生まれていく。

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishimaルオーが使用していた墨も置かれている

同展では、パリのアトリエに置かれていた実物を展示し、彼の最後のアトリエの再現を試みている。アトリエの物品がアトリエの外に持ち出されるのは初めてのことだという。

この頃の作品は、暖色系を中心とした明るい色調が増加。絵の具が何度も上から塗り重ねられ、重層的で厚みのある層となっている。この絵の具層は、ただ重ねるだけでなく、乾いた絵の具を削っては、さらにその上から別の絵の具を重ねるという行為を繰り返すことにより、まるで陶磁器の釉薬(ゆうやく)のような、光り輝く独特のマティエールを生み出しているのだ。

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima『モデル、アトリエの思い出』と『老兵(アンリ・リュップの思い出)』

またこの時期には、若い頃に描いた作品を、晩年に全く異なる作風で描き直している。

1900年ごろに制作された『老兵(アンリ・リュップの思い出)』は、モローの友人でルオーも親交のあったアンリ・リュップ(Henri Rupp)が描かれた写実画だった。しかし1946年頃、ルオーはそれを抽象性の高い人物像へと大きく改変している。

また『モデル、アトリエの思い出』も、画学生時代の教室の情景が描かれていたが、晩年に、思い出としてルオーが描き直した作品。これらは生涯、ルオー自身が大切に保管していた。絵の具の厚みとともに、ルオーの内面の記憶が折り重なって蓄積された特別な作品といえる。

ジョルジュ・ルオー アトリエの記憶
Photo: Karin Minamishima最晩年の作品群(左)と、「最後のアトリエ」で制作しているルオー

重層的な絵の具の底に、若き日の学友や恩師への思慕を刻み込んだルオー。彼にとってアトリエは、創作にふけだけなく、かけがえのない記憶と対話する場所でもあった。長い年月を経てなお、作品には彼がアトリエで生きた時間が封じ込められている。作品そのものだけなく、ルオーがアトリエで過ごした時間にも思いを馳せてみてほしい。

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