ハバナムーン
Photo: Keiko Oishi
Photo: Keiko Oishi

3000枚のレコードとともに生きる、吉祥寺「ハバナムーン」30年の軌跡

街を見つめてきた、店主の木下聡之にインタビュー

Mari Hiratsuka
テキスト: Hajime Oishi
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タイムアウト東京 > 音楽 > インタビュー:木下聡之

毎年、住みたい街ランキングの上位に選ばれる東京・吉祥寺。平日でも多くの人々が行き交い、駅周辺には新たな飲食店が次々にオープンしている。

そんな吉祥寺の街の変遷をじっと見続けてきた音楽酒場がある。それが1995年に開店した「ハバナムーン」だ。店主の木下聡之は10代からのミュージックラバー。店内には木下がこつこつと集めたレコード3000枚が並べられ、その温かい音色と店主との会話を求めて、毎晩吉祥寺の音楽好きが集まる。

アメリカのスワンプロックや知られざるシンガーソングライター、ソウルの名盤やアイリッシュトラッドの逸品など、そのラインアップはここだけのものだ。

古き良き吉祥寺の雰囲気を残す中道通りに立つ現在の店舗は、創業時から数えて3軒目となる。これまでの歩みや木下の音楽遍歴、交流が深かったフォークシンガーの高田渡のこと、さらには彼が考える音楽酒場の役割まで、じっくりと話を聞いた。

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Photo:Keiko Oishi/木下聡之

―お生まれは埼玉の鴻巣ですよね。

今は鴻巣市になってるけど、もともとは吹上町だったところだね。1966年生まれ。

―最初に好きになった音楽はどんなものでしたか。

中学の頃の担任の先生が音楽好きで、ビートルズのレコードを貸してくれたの。「She Loves You」で一気に持っていかれた感じかな。ただ、友達は吉田拓郎とかかぐや姫みたいな当時のフォークを聞いてたし、友達と始めたコピーバンドでもフォークをやってた。うちの学校、エレキ禁止だったからね。

高校に入ってから、RCサクセションがブレイクし始めた。その頃に西田信哉ってやつと仲良くなるんだけど、そいつは後にグラスバレーっていうバンドでメジャーデビューすることになるの。信哉はルースターズとかポリスみたいなちょっと性急な感じのものが好きで、自分もそのあたりを聞くようになった。

―今につながるような音楽に関心を持つきっかけは、大学進学で東京に出てきてから?

えっとね、その伏線があって。高校2年の頃にエレキのロックバンドをやるんだけど、熊谷のフジクラ楽器が年に2回主催するコンサートにそのバンドで出たことがあって。そこに出てたのが、コレクターズの加藤(ひさし)さんがやってたTHE BIKEっていうバンドだったの。

―その頃のTHE BIKEのライブを見てるのは、すごいですね。

もちろん向こうは覚えてないと思うけど。熊谷でベスパに乗っててモッズパーカーを着てた人、あの人だけだからね。加藤さんからはジャムとかザ・フー、キンクス、スモール・フェイスを教えてもらった。

―大学は明治大学ですよね。

そうそう、1984年入学。大学で東京に出てきてからは、お茶の水の黒沢楽器でバイトするようになった。当時住んでたのは笹塚だったから、下北沢に毎日のように行くことになって。今の「La Cana」の前身の「Ray's Boogie」っていう店では松竹谷清さんがバイトしてたし、あとは近藤房之助さんがやってた「Stomp」っていうブルースバーにもよく飲みに行ってたな。

ちょうどその頃にルーツミュージックの出合いがあって、もうどっぷり。吾妻光良さんのライブに行ったらそれも衝撃的でね。ジャンプ・ブルースとかジャイブとか、そのあたりを徹底的に聞くようになった。

当時ロンドンではスウィングのブームが起きていて、ワーキング・ウィークみたいなバンドが出てきたり、『ビギナーズ』(原題は『Absolute Beginners』)という映画があったりして。みんなロックに飽きて、そういう音楽がはやり始めていた。ワールドミュージックのブームもあったしね。

―当時はバブル絶頂期ですよね。

だから、アーティストの来日も多くてね。死ぬほどいろんなライブ​を観た。バブルの恩恵を思いっ切り受けてます(笑)。

―大学時代、吉祥寺に来ることはあまりなかった?

いや、もちろんあったよ。吉祥寺はレコードを買いに来るところだったかな。中道通り入ってすぐの辺りに「芽瑠璃堂」があって、ルイジアナ系の音楽がたくさん置いてあった。あとは「ディスクイン」が南口の2階のところにあって、そこにもよく行ったよ。

―1980年代後半の吉祥寺の雰囲気って、どんな感じでした?

「エスニックな街」っていう印象かな。「(元祖仲屋)むげん堂」は今もあるけど、ああいうイメージ。あと、「羅宇屋」っていうカレー屋さんがあってね。民族音楽の講義とかシタールの演奏会もやってた。あとは、(野口)伊織さんグループのFUNKYや寺島靖国さんのMEGとか、ジャズのイメージかな。

―吉祥寺と木下さんの縁が深くなったのは?

24歳ぐらいから「のろ」でライブをやらせてもらうようになったの。70席ぐらいある大箱だったんだけど、平日も座れないぐらい客が入ってた。いろんな人たちがいて、とにかく面白かったな。前進座の人とか変な詩人とか、映画関係の人もいたし、(高田)渡さんもいた。店主の加藤(幸和)さんはフォークが好きだったから、店ではそういうものがかかってたね。

―木下さんは、中央線のほかの街でも飲んでいたわけですよね。吉祥寺はどこが違ったのでしょうか。

阿佐ヶ谷とか高円寺でもよく飲んでたけど、原理主義者が結構多いじゃん。ブルース一択とかさ。でも、吉祥寺は風通しいいなと思って。それで26歳で結婚を機に吉祥寺に引っ越してきて、そこからズブズブ。で、のろにずっと行ってたら面白くてね、俺も飲み屋やりたいなと思って。

―そこからハバナムーンにつながっていくわけですね。

ちょうどバブルが崩壊し始めて、会社でリストラが始まったんだよ。俺はリストラ対象じゃなかったんだけど、結構エグい切り方してたんで、ここはもう信用できないなと思って。ただ、バンドもやってたし、なんとかして東京にいたかったの。それで、選択肢として飲み屋ってのが出てきて。27歳で会社を辞めて、2年間レストランで修業した。

―1995年にはハバナムーンが吉祥寺南口でオープンするわけですが、1軒目の店舗はもともと雑貨店の「Penguin Cafe」だった場所でしたよね。物件は結構探されたんですか?

1年ぐらい探したかな。修行していたレストランに俺の師匠がいるんだけど、その人は(紅茶専門店の)「Tea Clipper」を立ち上げた人で、吉祥寺にも詳しかった。その人がPenguin Cafeの久保田(光男)さんと仲良くてね。Penguin Cafeを閉めることになって、俺のところに一番最初に連絡があったの。

Penguin Cafeの雰囲気がすごく好きで、学生の頃からよく行ってたし、あの雰囲気を壊したくなかったんだよね。それでなるべく残す感じで店を作った。雑貨を置いたカフェって吉祥寺にもPenguin Cafe以外になかったし、あの時代の吉祥寺の象徴みたいな店だったからね。デートするならPenguin Cafeか、東急の向かいのビルの2階にあった「Flying Spoon」だった。

2000年の「ハバナムーン」

―その頃の吉祥寺には、音楽酒場が何軒もありましたよね。

そうだね。有名なのがソウルバーの「Copa」ね。「Copa Bros」っていう兄弟店や、七井橋通りには「Copa Jarib」っていうレゲエバーもあった。あと「ディスクユニオン吉祥寺ジャズ館」の隣のビルの地下には「Magazine Shower」ってレゲエバーもね。

―その頃、フードはどんなものを出されていたんですか。

フードは、完全にエスニック系。お店をやりたかったもう一つの理由は、ルイジアナの料理を出したかったの。ガンボとかジャンバラヤとかエトゥフェ、あとはテックスメックス系の料理。タイ料理やベトナム料理もやってたね。飲み物はモヒートを出してた。

―高田渡さんとは、のろで会うようになったのでしょうか。

うちにはのろのお客さんもよく来てたので、その流れで渡さんも来るようになった。そこからズブズブの関係になるんですよ(笑)。

―ズブズブの関係(笑)。

あの人、ローテーションを崩さないんだよ。(焼き鳥屋の)「いせや」へ11時に行って、いったん家に帰ってご飯を食べてからちょっと寝て、起きたらのろに繰り出し、22時ぐらいにうちに来て最後までいるという、それが一日のローテーションだった。家にいないからさ、ライブのオファーの電話もいせやにかかってくるんだよ(笑)。渡さん、電話だよ!って。毎日そんな感じだった。

―その頃、渡さんにいろんな音楽を教えてもらった?

そうだね。あの人は口癖のように「本物を知らなくちゃダメだよ」って言ってた。「本物をちゃんと聞いたり、見たりしないとダメだ」って。渡さんの家に遊びに行ってレコードを見せてもらうと、基本的にフォークウェイズとかああいうものしかないんだよね。「ロック系のレコードは全部売った」って言ってたな。もういらないって。

Photo:Keiko Oishi

―フォークウェイズということは、古いフィールドレコーディングの民族音楽シリーズということですね。

そう、ああいうのばっかり。だけど、ビートルズのレコードが2枚あったのは見逃さなかった。何でビートルズがあるの?って聞いたら、「これは嫁さんのなんだよ」って言ってたね。絶対うそだと思う(笑)。あと、ボブディランも1枚だけあったな。

90年代から2000年にかけてアイリッシュのブームがあって、渡さんもはまってた。シャロン・シャノンとデニス・ボーヴェルがやったアルバム(1994年の『Out Of The Gap』)もかっこいいって言ってた。ドーナル・ラニーのライブも渡さんと一緒に行ったね。

そうだ、ギリアン・ウェルチもすごく気に入ってたね。このアルバム(1996年の『Revival』)が好きだった。

―渡さんはこういう音を聞きながら、お酒を飲んでたわけですね。

そうだね。渡さんね、1年半ぐらい酒をやめてた時期があるんだよ。ガンマGTPが1400までいっちゃって、もうほぼ肝硬変なわけ。さすがにやばいとなって、2、3カ月入院して戻ってきてからは「もう酒もやめる」と言ってね。毎日、店に来てはお茶を飲んでた。

―それでもハバナムーンには来るんですね(笑)。

そうなの。パブリックイメージがあるから、一応ウーロン割りを飲んでるっていう設定でね(笑)。最初会った頃はボロボロだったけど、酒をやめてからはどんどんギターの技術がよみがってきて、「うわ、この人本当にうまいな!」と思ってた。

―禁酒していた頃はレコーディングもしてるんですか?

その頃のライブ盤があるんだよ(1999年の『Best Live』)。うちでやったライブが入ってて、その時は飲んでなかったね。

渡さんが歌った曲の中で『ブラザー軒』っていう曲があるんだけど、菅原克己という詩人の言葉にメロディーをつけたもので、その作業もすぐ横で見てた。「てにをは」の並び替えとかすんごいやるから、1曲に半年ぐらい時間をかけるんだよ。どっちがハマるかな、みたいな作業を延々やってた。

―ちなみに、あれは渡さんの絵ですよね。

そうそう。俺はその場にいなかったんだけど、どこかで酔っぱらって落書きしたものを友達の女の子が持ってて、「これはここにあった方がいいよ」つってもらったの。これ、Tシャツ作りたいよね(笑)。

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―1995年にオープンした南口のお店は、2007年にヨドバシカメラの裏手へ移転しますよね。移動した理由は何だったんですか?

えーとね、一人で店をやりたくなったんだよね。従業員が辞める辞めないっていう話になって、次の人もなかなか見つからないし、とりあえず一回閉めて、一人で回せるような店にしようと思って。

2軒目の店でもライブはやってた。出る人はだいたい決まってたけどね。スーマーとか桜井(芳樹)さん、良元優作、鈴木常吉さん、ハッチハッチェル、バンバンバザール、イノトモとか。あとはThe TRAVELLERSっていう久留米のジャンプ系のバンドをやってたザブケンこと石原顕三郎とか、AZUMIさんとか。

―ヨドバシ裏の2軒目も、2015年には一度閉められますよね。

食品添加物のこととか食の問題に興味を持ち始めたの。そんな時、自転車でうろうろしてたら近所の直売所で野菜を売ってて。買ってみたらめっちゃうまくて。手数かけないで旬のものを使った料理は、毎日食っても飽きないんだよね。

お客さんに自然食のお店で働いてる子がいて、その子からいろいろ教わりながら料理も変えていったの。それまでチリビーンズとかピザ、カレーが名物だったけど、途中から野菜メインの和食にして、店のドリンクもトニックとかコーラとか全部なくした。一気に客が減ったよ。

その頃は政治についての不信感もあって、自分の食べるものだけは確保したいっていう考え方がどんどん強まってね。野菜を作りたいと思って、店を閉めて地元の吹上に帰ったの。

―もともとご両親が畑をやっていらっしゃったんですか?

いや、何にも分からない状態で始めたんですよ。しかも自然農でやってみたくて。誰も教えてくれる人がいないじゃない? そんなんで飯なんか食えないわけよ。だから派遣で工場で働いて、時間がある時に畑を見る感じだったね。

―そういう生活は何年ぐらいやってたんですか。

5年ぐらいかな。そうこうするうちにコロナ禍になって。仕事場の人間とは会うんだけど、それ以外のプライベートで会った人間を数えたら1年間に12人しかいなかったの。やっぱり場所って大事なんだなと思って、もう一回東京に戻ろうと。で、お店やるんだったらほかの街ってもう考えられないから、吉祥寺に戻ろうかなと。

―それが2023年ですよね。再開の場所として中道通りを選ばれた理由は何だったんですか。

この店を探すのも1年以上かかってるんだよね。三鷹、武蔵境、武蔵小金井まで見たかな。でも、全然物件が出てこなくて。吉祥寺で十何軒も不動産屋を回って、ここでなかったら地元に戻ってもう一回仕事を探すか……と入った不動産屋にあったのが、この物件だったの。

Photo:Keiko Oishi

最後に渡さんと会ったのは、ちょうどこの店の前だったんだよね。渡さんは自転車に乗ってて、そこで立ち話をしたのが最後。その後北海道ツアーに行って、向こうで亡くなるんだけど。

―そういう意味でも、運命的な物件だったんですね。

そうだね。

―ここがオープンしたのは2023年の7月ですよね。お店を作る上でこだわったところは?

「Drop」っていうクラブを吉祥寺でやってたタジマってやつがいるんだけど、そいつと2人で4カ月ぐらいで作った。「江戸東京たてもの園」にある古い民家を参考にしてたかな。ちょっと洋風の民家のイメージ。料理も和風のお総菜みたいな感じだから、こういう雰囲気がいいなと思って。

Photo:Keiko Oishi

―メニューに関しては、どんなところにこだわっていますか?

吉祥寺でも、野菜をちゃんと食べられるところってなかなかないんだよね。だから、うちは旬の野菜だけでいいやって。魚とか肉を食べたかったらほかに行ってください(笑)。酒だって「これを飲んでくれ」みたいな店の方が潔いじゃん。ビールは「ハートランド」と「赤星」の2種類があって、焼酎は芋と麦、あとは日本酒、レモンサワーぐらい。そんなに種類を置いてもしょうがないからね。

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―90年代からの吉祥寺の移り変わりについては、どのようにご覧になってます?

画一化される中で、街がどんどん変わっていってるよね。あとは家賃が高過ぎるから個人店が入れない。今だって、個人経営のレコード屋が一軒もないじゃん。昔は10店舗以上あったのにさ。

―そうですね、なくなっちゃいましたね。

みんなネットで買うから仕方ないんだけど。佐野史郎さんと「吉祥寺もきつくなりましたね」という話をしていたら「だけど、街って変わるもんだからさ」と言うんだよね。「居続けないとダメなんだよ」って。「なるほどな」と思った。

―居続けないとダメなんだ、と。

そうそう。「昔の吉祥寺の方が良かった」なんて話ばっかりしててもしょうがないし、変わったなら変わったなりに付き合っていけばいいだけの話で。街の移り変わりを見続けるということが街にいるってことだからね。だから、自分からあえて場所は変えない。空気のようにそこにあるっていうのが大事かなと思ってる。いつ来ても変わらない感じでね。

―街は変わるけども、こういう場所があり続ける限り、変わらないものは変わらないですよね。

そうだね。街を作ってるのは結局、人だからさ。ここでできた人間関係は、街が変わってもずっと続いていくからね。酒場は人の本質を見られる場でもあると思う。もちろん酒が入るから粗相もあるけど、それを許容できる自分の人間力とかも問われるわけじゃん。だから面白いんだよね、飲みの場は。

Photo:Keiko Oishi

―木下さんがよく行く吉祥寺の店があれば、紹介していただけないでしょうか。

昔から年上の先輩の店で飲むのが好きでさ、たまに話を聞いてもらったりしてたんだけど、大体もう死んじゃったからね。だけど、「DA MEO PATAKA」(地中海料理店)にはたまに行くよ。店主の洋平さんは俺の5歳上だから。

―DA MEO PATAKAはいつからやってるんですか?

42年目。駅からわりと離れてるのにすごいよね。洋平さんはもともと大正通りの「ル ボン ヴィボン」(フランス料理店)にいて、24、25歳でDA MEO PATAKAを始めたんだよね。洋平さんも週3ぐらいでうちに来るし、こっちも時間がある時に顔を出す。栄養ドリンク持っていってあげたりね。

最後に、「これぞハバナムーン」というレコードを3枚紹介してもらった。

「どれも俺が20歳ぐらいの頃に買ってるんだよね。だからオリジナル盤じゃなくて、当時の廉価盤だったりするんだけど、結局40年飽きずにずっと聴いてる。やっぱりこういう『グッドタイムミュージック』みたいなものが一番しっくりくるんだよ」

Photo:Keiko Oishi/チェット・アトキンスとマール・トラヴィスの『The Atkins–Travis Traveling Show』(1974年)

Photo:Keiko Oishi/ホーギー・カーマイケルの編集盤『Sings Hoagy Carmichael』

Photo:Keiko Oishi/ドクター・ジョンの『Dr. John Plays Mac Rebennack』(1981年)

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※2017年の記事を基本情報のみ確認してアップデート

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