細野晴臣の轍

YouTube世代に再発見された音楽的冒険
作成者: Kunihiro Miki |
Advertising
テキスト:原雅明

昨年、アメリカの音楽レーベルLight In The Atticから、1973年の細野晴臣のソロデビュー作『HOSONO HOUSE』をはじめとする全5タイトルがリイシュー(再発売)された。

かねて、細野の音楽へ関心を持つ海外の音楽ファンは多かったが、今回のリイシューを機に一気に再評価が進み、2019年5月から6月にかけて、ニューヨークとロサンゼルスを回るアメリカツアーも決まっている。

細野は、ロックを題材にアメリカの音楽を遡(さかのぼ)ったかと思えば、1980年代にはYMOと歌謡曲にも関わり、さらにアンビエントミュージック/環境音楽にもいち早くアプローチをした。そして、先頃には『HOSONO HOUSE』を再構築した新作『HOCHONO HOUSE』をリリースしたばかりだ。

60年代末から現在までの日本のポピュラー音楽の歴史を振り返ると、さまざまな局面に登場するのが細野晴臣である。

そのことに気がついた海外のリスナーたちも、細野の音楽を熱心に追い始めている。背景には、近年、欧米の音楽ファンの間で高まっている、ジャパニーズミュージックそのものへの関心もあるだろう。

かつてアメリカの音楽に魅了され、それを追い求めるようにスタートした細野晴臣の音楽が、逆に今、求められている状況だ。そこにはどんな理由があるのだろうか。YMOやアンビエントで世界とつながっていた時代と現在では、何が異なるのだろうか。

そんな問いをきっかけにした、細野晴臣へのインタビューを届けよう。 

やみくもに好きだから、どんな音楽にも首を突っ込んできた


—Light In The Atticが細野さんの作品のリイシューに向けて動いているという話は、2015年初頭ごろから私も耳にしていました。その頃、レーベルの方と直接日本で会ってらっしゃいますよね?

会ったね。そのくらいの頃だったんだ。

—細野さんの音楽をレーベルの皆が好きで、ぜひ世界に紹介したいという熱い思いが、彼らにはあったようです。これ以前にも細野さんのところには、海外からのアプローチはあったのでしょうか?

いやいや。特になくて。すごくパーソナルにドイツのテクノミュージシャンとやったりとか、90年代や2000年代の初頭はそんなようなつながりでしたね。

—海外でどういう評価をされているのかはご存じでしたか?

全然分からなくて。何がいいんだか(笑)。あんまりびっくりはしないけど、アメリカにもマニアがいるんだなっていう印象ですね。

—遂にアメリカが細野さんを発見したんじゃないかと思いますが。

だんだん分かってきましたけどね、最近。世界的にもそういう風潮があるって。

—今、日本の音楽の再評価が著しいですね。そのことは実感されますか?

さすがに最近はそういうリアクションがたくさんあるので、周囲の人が教えてくれたり。ヴァンパイア・ウィークエンドが(カセットブックの)『花に水』っていう、本当に大昔のインストをサンプリングしていたり。そういうことがあると「なんでだろう」とは思う。日本自体に埋もれていた音楽がいっぱいあるので、彼らが注目しているんだろうなと思います。

—それが今のこの時期にというのは、なぜだと思われますか?

なんだろうねえ。やっぱり情報の環境が変わったことかな。ネットの世界で。YouTubeもすごく有効なメディアだと思うんですけど。あとは、音楽産業が確立化されて、そこに乗ってこない音楽っていうのはいっぱいあるわけですけど、そういうことにみんな聴き耳を立てるようになってきたのかなと思います。

—細野さんは、YMO時代には海外にも行かれ、リリースもされ、向こうの反応も見てこられましたが、その当時と今の状況にはどんな違いがありますか?

ずいぶん違う印象がありますね。YMOの時はアルファレコードがすごく戦略的に考えていたり、お金がやっぱりかかったり、ビジネスの側面が強かったんですけど、今はそういう時代ではないですね。お金はかからないし、情報もすんなり伝わっていく。日本でも聴いてくれる人はそんなに多くなくて、あんまり人のことを考えないで作っていたけど、それはちょっと今変わってきつつありますね。ちょっと意識しないといけないのかなとかね、あんまり得意じゃないんですけど(笑)。

—細野さんの海外のプレスリリースには、「日本では出る杭は打たれる傾向があると聞きました。 細野晴臣は突き出ている杭だと思います。 そしてそれを維持したのです」というヴァン・ダイク・バークスのコメントが載っていました。

そんなこと書いていたんだ。ちゃんと読んでないや(笑)。ありがたいことです。

—そして、Light In The Atticが60年代以降の日本の音楽のコンピレーションを企画した時に、フォークやロックでも、シティポップでも、そして環境音楽でも、中心的な役割を果たした人物が細野さんだと気が付き、細野さんが現在の日本のポピュラー音楽の基盤を作ったと発見したんだそうです。

そうですか。なんか申し訳ない。まあ、人材が少なかったからね。

—音楽のスタイルは変わっても、ずっとそこに何か通底しているものは細野さんの中であると思うんです。それについて聞かせていただくことはできますか?

いや、自分でも分からないんですけど、音楽は子どものころから人一倍好きなんですね、多分。それに尽きるんです。普通に音楽が好きだと思っていたら、ほかの人はそうでもないっていうのに気が付いたのが中学のころで。それ以来、あまり人に押し付けることはやめるようにしていたんです。本当にやみくもに好きで。どんな音楽にも首突っ込むっていうのはそのせいですね。

楽に作っちゃいけないような気がした

—『HOSONO HOUSE』はホームレコーディングで、基本的には全て細野さん自身が録音するスタイルでした。やはり人に押し付けないという考えから来たのでしょうか?

そうですね。もともと、音楽が自分の脳の中にあるので、それとの対話で作ってきた。第三者はあまり関係ないと思っていたんですよ。作った曲を最初に聴くのは自分だし、自分がOKを出せば世の中に出る。いつも自分との対話をして作ってきた。へんてこりんな音楽もいっぱい聴いていて、それをみんなに聴かせたら全然ダメだったっていう経験がある。変人扱いされたっていうか。あんまり人には押し付けないっていうのは、そういうことですよ。

—だからこそ、そのあとにアンビエントや環境音楽をひとりで作ることにもなったのでしょうか?

そうですね。あの頃が一番内省的になっているんですけど。だから環境音楽って外にある環境ではなくて、自分の中の環境に入り込んでいくわけですよ。でも、内面に入り込んでいくといつの間にか外に出ているという感じがあるんです。当時は、世界中のアンビエントをやっている人たちと繋がっている感じがしていたんですよ。

—ひとりで作っているけど、海外のアーティストたちと繋がっている感覚があったと。

そうなんです。サンフランシスコのスペースタイム・コンティニウム(イギリス出身のミュージシャン、ジョナ・シャープのソロユニット)とか、みんな誇りに思ってやっているんだなって知って。ビル・ラズウェルが来日した時に「会いたい」と言われたのが、90年代の終わりかな。そのときも、彼が「自分はアンビエントだ」と宣告するんですよ。それで一緒にレコード(『 Interpieces Organization』)作ることになったんです。

—『HOSONO HOUSE』の話に戻りますが、海外プレスに「ジャパニーズ・アメリカーナ」という形容があったのが印象的でした。

なるほど。まあそう言われても抵抗できない。今や、ああいうアメリカの世界はないといってもいいんじゃないかなと思っているんです。だから、アメリカ人のそういう音楽好きを見ていても日本の人みたいですから。オタクっていうか。

—昔はオタク的な人も日本にしかいない感じがありました。

そう。世界的にも広まって。それは20年前くらいからそうでしたけど、どの国に行ってもそういう人がいて、同じようなオーラを持っている。

—それはやはり情報が広がったということなんでしょうか?

それだけかな。よくわからないですね、僕も。例えば、シカゴから来て日本にずっと住んでいるジム・オルークは、すごく優秀な音楽家だと思うんですけど、彼と最初会った時に、自分の音楽をいっぱい聴いてくれているんですよ。いろんなことを知っていて。しかも、挙動不審(笑)。彼を見て、「あ、日本人だ」と思った。そういう人がいっぱい世界中にうようよいる。

 

—『HOCHONO HOUSE』を今作ったのは、海外でのリイシューの影響もあったのでしょうか?

それは多分あるんだろうと思いますね。でも、自分でも10年くらい前から作り直そうなんていう話を誰かにしていたらしくて。覚えていないんですけど(笑)。結局、自分がまいた種で、やってみたらすごく難しくてね。後悔していましたけど、出来上がってよかった。

—作るにあたって、特に留意したことはあったんでしょうか?

一番最初に決めたのは、ひとりで全部やろうということだけで、あとはやみくもに始めたんです。おそらく、いつもやっているバンドのメンバーたちとやったら、もっと早く楽に作れたのかもしれないんですけど、楽に作っちゃいけないような気がしてね。すごく苦労しましたよ。

—ひとりで作ることにこだわったのはなぜですか?

当時のデモテープが残っていて、それを聴くと、バンドで演奏する前のデモなんでひとりでやっているわけですよ。そのアレンジが『HOSONO HOUSE』に入っている感じと違うものなんです。おそらく、セッションでバンドとやると変わっちゃうわけですよ、ヘッドアレンジで。ですから、原形を改めて聴くと全然違うなと思って。それを今やりたいなっていうことはありましたね。全部じゃないですよ、何曲かはそうだったんです。

Advertising

遺伝子を受け継ぐつもりでやり続けている

—まもなく、ニューヨークとロサンゼルスで公演がありますね。どんなステージになりそうですか?

例えば、ロンドンやブライトン、香港でもそうだったんですけど、いつも日本でやっているスタイルでそのままやったんですね。MCも英語と日本語を交えた感じで。それでも、今の人たちは何でも受け入れてくれるんです。日本みたいなんですよ。なんだか大阪でやっているような気持ちになって(笑)。しかし、ニューヨークはそうはいかないかも、とか。いろいろ考えちゃいますが、結局できること以上のことはできないんで、いつもと同じですね。

—ロンドンなどでは、細野さんのファンが観に来ている感じだったのでしょうか?

そうだったと思います。若いスケボーの連中とか、昔の『Sports Men』(アルバム『フィルハーモニー』収録曲)っていう曲の歌詞に反応してて、すごく好きみたいでした。

—マック・デマルコが『Honey Moon』(『トロピカル・ダンディー』収録曲)をカバーしていましたが、印象は?

まあ、なんか日本の人みたい(笑)。同じアレンジでやっているし。

—細野さんがアメリカの音楽に影響を受けて作り始め、リスナーとしても色々な音楽を掘ってこられた。その作り手とリスナーの両方の視点があることが、海外にも影響を与えているのではないでしょうか?

だとしたら、うれしいですね。特に最近はアコースティックでブギーをやったりして、ラジオでは古い音楽ばっかりかけている。そういうのを若い人が聴いてくれるようになって、古い音楽を新鮮に聴くようになってくれる。大勢じゃないですけど、時々そういうファンに会うんですよ。

そうすると、自分はこういうことをやりたかったんだな、と思う。今は本当に、途切れてしまって、誰も聴かない音楽がある。宝の山のような20世紀の音楽があるのだから、誰か継承しないと絶えちゃうと思って。その遺伝子を受け継ぐつもりでやり続けているんですね、40年ぐらい。だから、それが海外の人にも伝わったらうれしいなと思いますね。

おそらく10年前に僕がアメリカで演奏したら、テクノ好きが集まっていたと思うんですよ。YMO世代がね。そうしたら多分、(テクノではなくなっている)僕の演奏を聴いた観客はブーイングで帰っちゃったと思う。でも、今ならできるなと思うようになりましたね。

—細野さんは、デイジーワールド・ディスク(1996年に自身が立ち上げた音楽レーベル)では若いアーティストをフックアップしていました。今もひとりで作っている若いアーティストの音楽を聴かれますか?

10年ぐらいなにも聴いていなかったんですけど、最近また聴くようになりました。人の音が気になり出して。そういうことが、10年に1回ぐらいあるんです。

—今がそういう時期だと。

そうなんです。アルバム(『HOCHONO HOUSE』)を作るとき、客観性を持とうと思っていろいろ聴き比べたりしたんです。前のアルバム(『Vu Jà Dé』)はそんなことしなかったので、今回は変わり目なんでしょうね。

最近は、15、6歳の男の子の音楽で面白いのが出てきた。KEEPONという子で、大滝詠一の大ファンでね。すごく面白いんですよ。

—細野さんがデビューした当時、自分の音楽を聴いてもらう努力をした記憶はありますか。

努力は一切しなかったですね。もともと、ヒッピーに憧れてドロップアウトしたような気分でやっていましたから。親とも断絶しているし、上の世代とも全然違うんですよね。だから、孤立しているのは当たり前だと思っていたし。

特に、はっぴいえんどは誰が聴いていたのか知らない。レコード出してもそんなに売れないわけですよ。世間的には認知されていないに等しいわけです。だから、それも終わったことだと思っていたら、終わっていなかったという。

—細野さんの中では、アンビエントやエレクトロニックミュージックは一回終わったものなのでしょうか?

いや、そんなことはないですよ。全然終わらないですよ。全ては終わらないです。一直線じゃないっていうことだけは確かだな。あっちこっちうろうろしているだけなんですけど。線を引いてここからここまでっていうことじゃないですね、人生っていうのは。

—『HOCHONO HOUSE』もある意味、終わらずに戻ってきた作品です。曲順も逆さまになっていますし。

そうなんです。逆転しているような感覚もあるね。ベンジャミン・バトン(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』)だっけ? このまま赤ちゃんになっちゃうんじゃないかなって(笑)。


細野晴臣の公式サイトはこちら

In cooperation with 檸檬

グローバルに活躍するアーティストたち……

映画

インタビュー:坂本龍一

ドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開中だ。坂本龍一が2012年に行った岩手県陸前高田市でのコンサートから始まり、2017年4月に発売されることになる最新アルバム『async』の完成に至るまでの約5年間を追った作品である。 東日本大震災にまつわるシーンでは、官邸前のデモでのスピーチや、防護服に身を包んでの被災地視察、津波をかぶったグランドピアノをつま弾く姿など、行動的な坂本の姿が映される。その後、カメラは、2014年に発覚した中咽(いん)頭がんによる闘病生活を経て、黙々と音楽制作と向き合う音楽家としての坂本を静かに見つめる。 映画は、5年間という時間の中で坂本個人に起こった変化のひとつひとつに焦点を集中させることなく、淡々とその姿を追い、言葉を拾いながら、時代の移り変わりや音楽の本質といった普遍的なテーマを浮かび上がらせる。坂本龍一という人物を通して、人類の業や未来について、深く考えさせられる1本だ。今回のインタビューでは、劇中の随所で坂本が発した印象的なセリフについてその真意を尋ねるとともに、アルバムに込められた「async」=非同期というテーマをひも解く鍵を探った。

音楽

インタビュー:DJ Nobu

今や世界でも指折りのテクノDJのひとりとなったDJ Nobuの夏は、今年も多忙を極めた。日本でのパーティやレイヴの合間を縫うように、数々のヨーロッパのフェスティバルへ、時にはヘッドライナーとして出演している。フランスの『The Peacock Society』やベルギーの『Crossroads』、そしてエレクトロニックミュージックのフェスティバルの最高峰であるスペインの『Sónar Festival』やオランダの『Dekmantel Festival』など、錚々たるイベントが彼をメインアクトとして呼び寄せる。9月には4度目となるアメリカツアーも成功させた。 このインタビューが行われたのは、『Sónar Festival』から凱旋し、彼が8年連続で出演してる長野のフェスティバル『rural』でのプレイを終えた翌日だ。最前線を駆ける彼の言葉から滲(にじ)み出るのは、日本のクラブシーンへの深い愛ゆえの苦悶。そして、グローバルな活躍から得た経験と知見を国内に還元し、新たなシーンのあり方を模索する姿勢だった。

Advertising
音楽

インタビュー:清水靖晃

清水靖晃を中心に1979年に結成されたバンド、マライアのアルバム『うたかたの日々』(1983年)が海外のレーベルでリイシューされ、欧米に紹介されたのが2015年だった。そして、清水のソロ作品『案山子』(1982年)や『ミュージック・フォー・コマーシャルズ』(1987年)も2017年にリイシューされた。それらは、単にレコードマーケットを活性化させただけではなく、日本の音楽への関心を高めた。特に、清水の音楽は、現行の音楽シーンの中でも対等に評価されるべきものとして広がった。 現在の清水には、ヨーロッパを中心にツアーやフェスティバルのオファーが絶えない。今年の夏にはデンマークの『ロスキレ・フェスティバル ※』 や、ロンドンでの単独公演など、計4ステージを実現させたばかりだ。かつてのマライアや、ライフワークのように続けているサキソフォネッツのようなグループ/バンドでの演奏ではなく、若いエレクトロニックミュージックのアーティスト、國本怜をともなっただけの、シンプルでミニマルな新しいプロジェクトでの演奏を行った。その評判は上々で、海外のメディアでも大きく取り上げられた。また一方で、直近ではNHKのドラマ『透明なゆりかご』の音楽を手がけるなど、作曲家としての仕事もこなしている。 その海外公演から戻って落ち着いた時期に、東京から少し離れた所で制作を続ける清水を訪ねた。サックスでも何でも録音するという、こぢんまりとして居心地のよい作業部屋を見せてもらいつつ、リラックスした雰囲気の中で話を聞いた。清水の音楽の成り立ちようは特殊であるが、それがいま普遍的なものとして響いているのが何よりも興味深く、創造性を刺激することなのだ。 ※ロスキレ・フェスティバル:1971年から続く北欧最大の野外音楽フェスティバル。

音楽

インタビュー:布袋寅泰

今年で53歳になるギタリスト布袋寅泰は、日本での盤石なポジションを捨て、家族を連れて3年前にロンドンに移住した。海外で人気の「サムライミュージシャン」はほかにも少なからず存在するが、布袋のようにキャリアの成熟期を迎えてから海外に挑むケースは稀だ。彼は2015年の春にスパインファーム レコードと契約し、今回ついに完成した世界デビュー作『Strangers』を、2015年10月にアメリカ、ヨーロッパ、日本でリリースする。イギー・ポップをはじめ、シェイ・シーガー、ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタインのマット・タックやラムシュタイン/エミグレイトのリヒャルトらをゲストに迎えた同作は、「切り開く」ことに注力した内容というよりは、布袋が青春時代に養ったブリティッシュロックの血と、この3年間のロンドン生活で養われた新たな人生のスタイルが見事に結実した一作となっている。

Advertising
音楽

インタビュー:寺田創一

Satoshi Tomiieや高橋透、DJ NORIらとともに90年代の日本、つまりハウスミュージック黎明期に活躍した寺田創一は、自身のレーベルFar East Recordingから多くの作品をリリースし、国内外で高い評価を得ている作編曲家、リミキサーだ。90年代以降はドラマやCM、ゲームソフトの音楽を手がけてきた彼だが、ライブパフォーマンスを行うOmodaka名義では、民謡やチップチューン、ビートミュージックを独自に解釈した楽曲を発表している。 その彼が今年、キャリアの原点である90年代の作品を集めた『Sounds from the Far East』をアムステルダムの名門レーベルRush Hourからリリースした。このリリースがヒットしたことで、今年はクラブやフェスティバルなど、様々な場面で彼のハウスセットのパフォーマンスを目撃することができたわけである。10月には、若き才能として注目を集めるSEKITOVAとともに森高千里をフィーチャーしたミニアルバム『百見顔(Hyamikao)/Foetus Traum』をリリースするなど、彼を取り巻く環境は確実に活気づいてきている。今回のインタビューでは、2015年になって急浮上した彼の90年代の楽曲の魅力をひも解きつつ、独特な創作のスタンスについて迫った。 なお、彼は12月24日(木)に開催される『タイムアウト東京 大忘年会 2015』(入場無料)にも出演してくれるので、生のパフォーマンスを観たい人はぜひ参加してほしい。

Photo:James Hadfield
音楽

インタビュー:ジム・オルーク

「日本語と英語、どちらでやりますか?」新宿の古びた喫茶店でのインタビュー前にジム・オルークは私にこう聞いてきた。シカゴとニューヨークのインプロヴィゼーション・シーンのベテランで、ウィルコの2004年のアルバム『ゴースト・イズ・ボーン』でグラミー賞を受賞したプロデューサーでもあり、ソニックユースの元メンバーであるジムは、日本に暮らし始めてて5年が経つ。そして今では、日本語で話す機会の方が多いという。 移住する前から50回ほど日本を訪れていたジムは「他の国とくらべて、日本が一番気に入っていた」という。移住後はフリーのプロデューサー業に精を出すほか、自分のソロプロジェクト(最新アルバムは2009年の『ザ・ビジター』)や、新宿のライブハウスで活動を続けている。アバンギャルドのアイコン的存在の灰野敬二やメルツバウ、ジャズミュージシャンのザ・シングと舞台を共にするほか、キーボード奏者の石橋英子、ベースの須藤俊明、ドラムの山本達久らと結成したバンドで活動を続けている。 メディアに出ることはめったにないことで有名なオルークがめずらしく姿を現して、今月末に予定されているスーパーデラックスでのコンサートについて語ってくれた。6日間にわたるコンサートでは、大学時代の作曲、根強い人気のソロアルバム2枚(インスト中心の『ハッピー・デイズ』と『バッド・タイミング』)から過去の軌跡を振り返ると同時に、待望の新曲も披露するという豪華な内容になっている。しかもほとんどの曲が現時点では未完成。昨晩は『タクシードライバー』という日本酒を飲み明かして二日酔いだというから大変だ。「目覚めたとき自分がトラヴィス・ビックルになったかと思ったよ。強い酒だった」と彼はいう。 ー(『タクシードライバー』は)ご自分で選ばれたのですか? 飲むのは日本酒オンリーです。ほかの酒は酔いが回るのが早すぎて。日本酒が大好きなんです。ボトル一本飲んでも大丈夫。日本酒を飲み始めたことは、人生に起きた最良の出来事のひとつなんじゃないかな(笑)。思考を停止できるんですよ。麻薬とかは試したことがないので、日本に来るまで脳を停止させるのは一苦労だった。何をしても仕事のことを考えていて、不眠症っぽくなってました。おかげで今は仕事をストップすることができます。 ーとても落ち着いているのはそのせいですか? 日本酒が僕を落ち着かせたかはわからないけど。(間をあけて)仕事について考えるのを少しだけやめたんです。これは僕にとって、新しくてエキサイティングなことです(笑) ー仕事についての質問になってしまって申し訳ないのですが・・・あなたのことを知らない友人に、あなたについて話すと、「そのひとはどうやって生活してるの?」と聞かれるのですが、現在のメインの収入はどこからになるのでしょうか? 僕のですか?基本、過去20年は脇目もふらず仕事ばかりしてました。20年前にやったことの方が、今の仕事よりも収入になってますが(笑) ー印税だけで生活しているのですか? ええ、もちろん。莫大な金額じゃないですけどね・・・幸運なことに、誰かの曲をプロデュースするときに作詞もすることがあって、それが自分がつくった作品より大ヒットすることがあるんです。一曲だけだったら月に25円くらいでも、それが200曲あれば、生活していくことはできる。15年前、日本に移住しようとして挫折しました。言葉もわからないし、若すぎたし、お金もまったくありませんでした。だけど頭の片隅で、いつか必ずできると信

Advertising
音楽

インタビュー:EGO-WRAPPIN'

2016年に結成20周年を迎えたEGO-WRAPPIN'(エゴ・ラッピン)。息切れすることもなく、常にフレッシュなイメージを振りまきながら駆け抜けるには、20年という時間は決して短いものではない。しかし彼らは、少なくとも端から見れば、軽やかにマイペースにそれをやってのけた。玄人好みなサウンドの反面、お茶の間にも親しまれる絶妙な立ち位置も、ある意味理想的だ。今年の夏、同じく20歳となった『フジロック』のホワイトステージで、ファンと一見客が入り混じる満員の会場を沸かせる彼らのパフォーマンスを観ながら、改めて、なぜ彼らだけがこの境地に辿り着けたのか、知りたくなった。本インタビューでは、中納良恵(ボーカル)と森雅樹 (ギター)、刺激し合い補い合う2人の関係を紐解くことができた。

The Beatniks
鈴木慶一(左)、高橋幸宏
音楽

インタビュー:ビートニクス

鈴木慶一、高橋幸宏によるユニット、ビートニクス(THE BEATNIKS)が、1981年のデビュー以来、通算5作目、前作から約7年ぶりとなる最新アルバム『EXITENTIALIST A XIE XIE(エキジテンシャリスト・ア・シェーシェー)』をリリースした。 はちみつぱいやムーンライダーズとしてロック史に軌跡を刻み、時代の空気を吸い込みながら、尽きることのない好奇心を爆発させている鈴木慶一と、サディスティック・ミカ・バンドや、海外からも評価されたジャパニーズ・テクノ、ニューウェーブの先駆者となったYMOでドラマーを務め、現在ではMETAFIVEとして活躍する高橋幸宏。2人の波長が交錯して生まれる知的なサウンドは、実験的でありながらもポップで、聴く者たちのイマジネーションを刺激してくれる。アルバム制作の経緯や、2人の関係について語ってもらった。 忙しい時にやるのがビートニクス −新しいアルバムを作ろうと思った動機は何だったんですか。 高橋:ライブ用や番組のテーマ曲を作っているうちに曲が増えていったんだよね。 鈴木:赤塚(不二夫)さんの生誕80周年イベントでライブをするためにスタジオに入り、「シェー・シェー・シェー・DA・DA・DA・Yeah・Yeah・Yeah・Ya・Ya・Ya」と「鼻持ちならないブルーのスカーフ、グレーの腕章」を作った。その後、8月くらいにNHKの番組「J−メロ」のテーマ曲を作ったんだ。ほかにストックも2曲あるから、アルバム作れちゃうんじゃない?って。そう思ったのが去年の秋くらいだった。 −7年ぶりのアルバムを出してどんな気持ちになりましたか。 鈴木:7年ってすごく短かかったな。 高橋:本当だね。今回はすごく短く感じた。 鈴木:7年間にいろんなことがあったしね。いいことも悪いこともあって。だから次の7年とか、10年とか考えるのは嫌だね(笑)。 鈴木慶一 ーリリースしたばかりですが、次のアルバムについての計画はありますか? 鈴木:今は全く考えてない。この7年があっという間だったのもあるから、早めに作ったほうがいいかもしれないって気にはなってるけど。 高橋:7年前って言ったら2011年でしょ。結構せわしない年だったな。入院もしたし。 鈴木:私は還暦を迎えたし。ムーンライダーズは活動を休止することになり、そのアルバムを作るのでいっぱいいっぱいだったな。 高橋:慶一は活動休止だけど、僕は退院直後にJ-WAVEのイベントのキュレーションをしたり、YMOが活動再開して、ハリウッドボウルとサンフラシスコでライブやって、帰国したらNHKのスタジオライブがあったりして、目まぐるしかった。 ー激動の中での制作だったんですね。  高橋:忙しい時にやるんだね、ビートニクスって。1981年の時もそうだったけど。今作の時は、慶一が忙しかったんだよ。 鈴木:映画やドラマの音楽制作が数作続いていて、その中でのレコーディングだったから、同時に色々なプロジェクトが進行していた。曲を作ってて、ちょっと壁にぶち当たると歌詞作ったりして、また曲に戻るみたいなね。歌詞作るの楽しいなって思ってる時に歌詞を書いて、歌詞作るのに煮詰まってくると、音楽作る。楽しいと思わないとできない。コンピューターに向かってブツブツ言ったりもするけど、わりとマゾヒスティックなんでね。大変だなって思っている時に、脳内に快感を覚えるんだよね。 高橋:コンピューターに向かって独り言をブツブツ喋るって慶一は言

More to explore

Advertising