開かれたアートや文化がムーブメントを知るきっかけに
―イベントのラインアップを見てみると、「トランスインクルーシブ(Trans-inclusive)」なクラブイベントである『WAIFU』や、80年代のエイズ(AIDS)パンデミックの記録にフォーカスを当てた上映会、当事者のアーティスト、学者、活動家を招いたトークシリーズ、そして歴史的に女性たちの活動に活用されてきたZINEのフェアなど、表現形態だけでなく内容も多岐にわたります。
シャイ:これはキュレーションのテーマでもあるのですが、私たちは二人とも、アートは開かれた場所にあるべきものだと考えています。万人の手の届くところ、万人が触れることのできるものでないといけない。でもそれって、大きな画廊ならまだしも、美術館ではありえないことですよね? 20世紀半ば以降、現代アートは自己疎外の道をたどってきましたから。
私はキュレーターとして、美術史を専門としない人や批評理論を読まない人、つまり誰もが理解できる作品を用いたプロジェクトを企画してきました。世界のアートシーンで評価の高い作品を選ぶこととインクルーシブ(包摂的)な作品選びをすることは、バランスが大事なのであって、全く相いれないものではないのです。
バックグラウンドの異なる人々がアートや文化と触れ合う機会を作ることは、私たちにとって非常に大事です。ありのままのあなたが来て、アートや文化と触れ合ってくれたらいい。アートや文化は、そもそも全ての人に開かれたものなので。
イザベル:先ほど「コミュニティー内の新たなつながりの機会になれば」と言いましたが、そこには海外のコミュニティーも含まれています。特に上映する映画作品を選ぶ際には、イベントに参加するアーティストやアクティビストたちのアイデアを反映しました。例えば「ヴォーギングのイベントをするから、ボールルームの歴史についてのドキュメンタリーを上映したらいいのでは」といった案です。
出演者たちとの対話から「これは今日の日本でも上映するべきだ」と、アメリカやヨーロッパにもつながりが広がっていきました。世界的なムーブメントの一部を体感することも必要だからです。これは現代社会だけの文脈ではなく、アメリカやヨーロッパの歴史的な背景も含みます。
―なるほど。文化やアート作品を通じて、性的少数者のムーブメントやその歴史に触れる機会にもなれば、ということですね。
シャイ:日本の批評理論的な部分では、LGBTQ+の権利やムーブメントの歴史的文脈が完全に理解されているとは言い難いでしょう。私はこれまでにヨーロッパと北米で暮らしてきましたが、現在の日本は90年代の北米に似たところがあると感じています。
これは社会的な受容の話ではなく、認識の問題です。日本の一般社会は実はとても寛容だと思いますが、カミングアウトしているクィアコミュニティーの人々と出会う機会がまだ少ないですよね。
それに日本のコミュニティー内においても、性的少数者のムーブメントの歴史は共有されていなかったりします。欧米では『パリ、夜は眠らない』や『UNITED IN ANGER -ACT UPの歴史-』といったドキュメンタリー作品は、みんなが観ているいわば古典です。クィアの政治の歴史として理解されているわけですが、日本ではそこまで知られていません。
だからこそ、こうした映像作品を日本で上映し、トークセッションを設けることに意義があるのです。私の印象ですが、自分の親世代よりも今の日本の若い世代の方が受け入れてもらいやすいと感じています。自分自身が社会で置かれている状況をより深く理解したり、感じていることを言語化したりするためにも、過去の権利闘争を含め、これまでの経緯を知る必要があるのではないでしょうか。
イザベル:私も、アートはできるだけ多くの人に開かれたものであるべきだと思います。作品の持つメッセージが多くの人の解釈を受けてこそ、よりアクセスしやすいものになるのです。人の心に触れる親密なアートこそ、広い範囲で人を魅了します。そこには、学術的な理解は必要ありません。
私の考えるクィアアートとは、友情や親密な関係、人の温もりを実感できるものです。ただ、クィアアートをどう語るかについては、もっと議論が重ねられてしかるべきですね。現代アートやそのほかのアートの文脈において、クィアアートとは何を指すのか。すでにさまざまな意見が出ていますが。
また、私はこのフェスティバルのキュレーション自体が「クィア」なものだと思っています。それはトピックを扱っているからではなく、アーティストやアクティビストとの対話から生まれるアイデアを柔軟に取り入れていく企画プロセスもまた「クィア」だからです。