東京を創訳する

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

東京を創訳する 第25回
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東京を創訳する 第25回

今回は、天皇・皇族以外の「上流」について書こう。しかし、日本では天皇・皇族以外の「上流」は、ほとんど存在しない。理由ははっきりしていて、19世紀以降、明治維新と太平洋戦争の2回、「上流」が吹っ飛ばされたからだ。もちろん明治維新の後も、勝った薩摩・長州、延命した大名、公家は「華族」となっていたが、そうなっても英国貴族のような堅固な城や領地があるわけでもなく、大半の華族は一般人から尊敬されるような過去の功績もない。西洋の貴族制度に対応するためにでっち上げた「上流」だから、80年もしないうちに戦争でアメリカに負けてみれば、すべてガタガタになって、その華族たちも「私たちは上流です」と言い続ける度胸もないし、周りの人も聞いてやらない。 ただ、いつの時代にも金持ちはいる。その人たちの中には、戦後すぐに華族に取って代わり、「宮家」から邸宅を買い取り「プリンス」ホテルを始める、といったしたたかな成金もいた。その後も、高度成長期やバブル、ITバブルと、その都度、新興長者は生まれて、その人たちが擬似的に「上流」っぽくなっている。そうした金持ちや、2度吹っ飛ばされた中でも生き残った人たちが住んでいる場所を、ここでは「上流の場所」と呼ぶことにする。 外国に行くと、金持ちの住んでいるところを見たくなる。カリフォルニアのビバリーヒルズなどでは、観光ツアーもある。東京ではどこがそうなのだろう。ロンドンだとチェルシー、ケンジントンとか。パリだったら16区、シテ島、サン=ルイ島。東京の場合、「上流の場所」にふさわしい要素は3つあった。ひとつは、皇居に近いこと、2つ目は高台であること、3つ目は都市計画がほどこされていること。 一つ目の皇居の近くとは、江戸時代では大名、旗本にとって、城に何かあったらすぐ駆けつけられる利点があった。御三家や重要な大名の住まいであった紀尾井町(紀伊、尾張、井伊の三大名が住んでいた)とか、一番町から六番町までの直参の武士たちの「番町」※である。ロンドンのケンジントン宮殿やパリの大統領官邸、エリゼ宮の近くに高級な商業、住宅地域があるのと同じだ。ところが、いまや東京の人でも高級住宅地として、「番町」をイメージする人は少ない。明治維新以降、戦前まではお屋敷があったのだが、いまやあまりに手が届かない値段の場所になっていて、一軒家を建てるのは難しい。マンションだったらあるが、マンション住まいとしては近くに繁華街がない。国会や最高裁判所の近くに住んでいても、生活上楽しくも便利でもない。むしろ、後に述べるように、マンションだったら今時の成金は、六本木ヒルズあたりに住むわけだ。しかし、私たちが散歩するのにはこのあたり(番町)は雰囲気がある。国立劇場から、英国大使館の裏あたり、皇居に近づいたり離れたりしながら靖国神社まで歩いたりすると、東京の一面が分かるのでおススメする。 ※番町:東京都千代田区の地域内区分のひとつ。 二つ目の「高台」には、やや知られている高級住宅地がある。松濤、元麻布、青山、高輪、御殿山、島津山、池田山。これらは、江戸時代は郊外であって、大名の上屋敷ではなく下屋敷が置かれていた。前にもこの連載で書いたが、東京はロンドンやパリと比べて、土地の起伏が多い。ローマみたいに丘があるのだ。当然、水はけのよい高台には上流の武士階級が、その下の方のじめじめしたところには、町人が住むことになる。いまでも住宅地として、丘の上と麓では雲泥の差がある。渋谷を例に取れば、いまの渋谷駅あたりは高台の松濤と青山の狭間にあって、戦後も数十年前までは、「下流」の空気感があっ

東京を創訳する 第24回
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東京を創訳する 第24回

旅行のひとつの楽しみは、その土地の人との思い出深い交流である。ちょっとした買い物で店員としたやりとりや、食べ物屋で隣り合った地元の人との会話など、旧跡を訪ねた感動とは違うものがある。しかし、そうした普通の人との交流はできても、パリやニューヨークに行って、そこの「セレブ」やその生活を「観光」するのは難しい。それは無理に近い。でも、ロンドンでバッキンガム宮殿に行ったりするのは、その建物を見るためだけでなく、エリザベス女王が現れないとしても、宮殿の上に王室旗がはためいていれば陛下がそこにいるのだな、といった興味が湧くからだろう。 東京を訪れる外国人旅行者は、東京ではそうした「上流」の人とはどんな人で、どこにいて、何をしてるのだろう、とは考えないだろうか?他方、「普通の日本人」は東京の盛り場で何をしているのかと思ったりしないか?そう考えて、今回からは、観光では会えないような東京の上流や、「下流」というよりは庶民の人たちがどこで何をしているのかを半年ほどシリーズで書いてみる。 実は、この「High Life - Low Life」というのは、イギリスの雑誌コラムからのパクリである。1990年代は、High Lifeは上流階級出身のTakiという人が、Low Lifeの方は、ロンドンで有名な酔っ払いのエッセイスト、ジェフリー・バーナードという人が書いて人気を集めていた。僕自身はもちろん上流階級ではなく、盛り場に詳しかったりしているわけでもまったくないが、多少、今までに見知ったことを書こう。まずは上流から。 欧米に行くと上流の人たちというのが確かにいる。アメリカの古い大金持ちや、大統領の係累(けいるい)。ヨーロッパだったら貴族という階層があって、城に住んでいたりする。では、それにあたる人々とは日本、特に東京では誰なのか。答えは簡単。東京のど真ん中、広大な皇居に住んでらっしゃる天皇とそのご一家だ。ほかにも、皇居からそう遠くない繁華街の赤坂に「御所」という広い敷地があって、天皇の男系親族の数家族が「宮家」(prince)として住んでらっしゃる。そのあたりのことは英国のロンドン、タイのバンコクの王族の事情と変わらない。ただ、日本の社会で「上流階級」、というと何か外国とはニュアンスが違う。天皇や皇族は「階級」ではない、というか、ある意味で、もっと飛び抜けているというか。そのあたりの理屈も追々書くことにする。 天皇、皇族とその生活はこのタイムアウト東京のテーマになるのか。ぶっちゃけていえば、「天皇」は「観光」の対象になるのか?(日本人の読者にはやや無礼な、と気になる人もあろうが、今後このシリーズでは許してほしい)もちろんなる。好奇心と興味の湧く文物はすべて観光の対象だ。まず、天皇と会うことはできなくても拝見するチャンスはある。毎年2回、天皇誕生日(12月23日)と、1月2日には、皇居で一般参賀という機会があって、天皇ご一家がみなの前に姿を現すのだ。正月などは、毎年数十万人が集まるところを見ると、少なくとも日本人にとってこれは、一種の「観光」だろう。 ご一家は見られなくても皇居だったらいつもそこにある。日本一大きな城だから見応えはある。ただその皇居も、元はといえば天皇の「御所」ではなく、将軍であった徳川家の御城だった。天皇代々の御所は京都にある。最近のことだが、いまの皇居に天守閣を建てて観光の目玉にしようという案が出て、国会で議論にすらなった。その

東京を創訳する 第23回『初夏』
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東京を創訳する 第23回『初夏』

東京を訪れるベストシーズンは、5月から6月の初夏である。その理由は3つある。 第1に、気温は高いが盛夏の35度といった暑さではなく、風が吹けば心地良い、夜は時に肌寒くなるくらいの、温帯の夏である。旅行の装いも軽くなるし、身が軽ければ心も軽くなる。 第2に、昼間が長い。何十年もサマータイムの導入が叫ばれているがなかなか実現しない日本で、昼間(daytime)でもなく夜(night)でもない、宵(evening)の美しさと心地良さを味わえるのは、この時期だけである。灯刻となり、さて今から何を食べよう、どこに飲みに行こう、と考えるのは旅の大きな楽しみだが、初夏はそれをゆっくり算段することができる。夜が長いのだ。 第3が、意外に気づかれないのだが、旅行に最適なのに、その割にはすいている。4月は桜の狂想曲で、外からの旅行者よりもまず日本人が浮き足立っていて、どこに行っても混むし、気ぜわしい。桜に興味のある外国人旅行者だったらよいが、日本人の浮かれ具合に巻き込まれ、スケジュールが立てにくいのはやっかいだ。その桜が終わっても、4月末から5月第1週のゴールデンウィークという旅行シーズンが来る。この時期は、外国からの旅行者にとっては、興味深い行事や催しものがある訳ではない。ただ列車やホテルが取りにくくなるだけだから、避けた方がよい。ゴールデンウィークが終わると、気温が高くてもあまり蒸さない、心地よき初夏が来る。この時期に日本を旅する楽しさを逃がす手はない。最近北米の旅先で聞いた話だが、日本に来て2週間くらいサイクリングをする、というツアーがあるようだ。少しハイエンドな感じだが、東京のホテルに集合し、飛行機で出発地点に向かう。自転車とそのガイドさんが待っており、サイクリング旅行が始まる。私の聞いた場所は、能登半島と瀬戸内である。その行程に老舗旅館や、美術館が組み入れられていて、元気で好奇心の旺盛なシニアにうってつけだろう。ゴルフもこの時期にプレーするのが最高だ。日本のゴルフ場は、その数が飽和状態にあることからさまざまな工夫がなされているところも多く、ハワイでのゴルフとは違った味わいのゴルフ旅行ができるだろう。 さて、話の焦点を東京に合わせると、私の初夏の好みは、ショウブと大相撲である。ショウブは堀切菖蒲園など名園が沢山あるようだが、それはタイムアウト東京でチェックするとして、個人的には明治神宮御苑が好きだ。6月の開花の時期をうまく見計らうと、鳥居をくぐって進む参道は木々の深い緑が美しく、小道に入ってからしばらくして、ふと現れる菖蒲園は、見渡す限り濃紺から白までさまざまな色が彩なす、大輪の花が満開となっているだろう。この時ばかりは薄曇りくらいがよく、雨が降っていたらそれはむしろ好都合、興を添える。その点は風と雨が大敵の桜と違って、水と縁あるショウブならではの持ち味かも知れない。 大相撲は行けばすぐに見られるものではない。東京の夏場所は、5月の15日間と限定されて、そもそもチケットが取りにくく、外国から訪れる観光客には難しい見物であろう。しかし、そう諦めたものでもない。両国の国技館に行くと、やってくる力士、「場所入り」をする相撲取りの姿を見ることができる。そのため国技館の周りには、ファンがたくさん群がっている。番付の下の方にいる若いのから、次第にランクが上の力士が現れ、最後は横綱である。そこに何時間もいるわけにもいかないので、小一時間くらいの見物を勧めるが、相撲取りは見ると聞くとでは大違いだ。単なる肥満の人とは大違いである。その若くはち切れた大きな姿を見るだけでも

東京を創訳する 第22回『早春 - 花見』
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東京を創訳する 第22回『早春 - 花見』

「4月は残酷な季節」とは、イギリスの詩の有名な一節だが、文学的解釈は別にして、まずはイギリスの天気の不安定さを言っているに違いない、と思う。4月、うららかな日差しに家庭菜園の手入れを始めると、突如黒雲が湧き、霰(あられ)が降ってくる。あの激変は手が付けられない。東京の3月も似たところがある。3月の初めはまだ、雪が降ったり、厳冬の気温となったりするのに、月末には桜が咲いて、浮かれ気分になる。その一月の変化の大きさは一年の中で最も激しい。 花の薫りは、まずは2月に梅が届けてくれるが、そこから冬が居座る。一体いつ春が、と思うと突然、「春一番」という名の暖かい風が吹いて、冬の縛(いまし)めがほどけだす。そうすると、3月には、地球上で日本列島だけの気候現象、「桜前線」が南から上がってくる。桜が開花した土地を線で結ぶ前線だ。世界にどんな大ニュースがあっても、NHKのトップニュースはどこそこで桜が開花した、という桜便りである。そんなことでいいのか、もっと大事な問題があるだろう、と思う向きもあろうが、3月半ばを過ぎれば、もはや「桜」にかなう話題は無い。 昔からそうか、といえば、4、50年前はそんなでもなかった。全共闘という古風な運動をしているとき、花見をしようと言い出したりする僕は「右翼」と批判された。戦前、桜のぱっと散るところが軍人の潔さの比喩になったりしたからだ。今はそうした政治的反省など気にすることなく、いつでもどこでも、桜を愛でない人は日本人でないと思われる。常にあまのじゃくな僕は、そういう押しつけは全体主義的だと感じて、いまでは桜の話題をいぶかしく思っているのだが、ここでは素直になって、東京の花見はどこがいいか、という定番の話題に進もう。 どこがいい?いや、そんなことは僕が書くまでも無く、テレビや雑誌、新聞で特集が組まれている。そこを参考にした方が良い。それほど、桜フィーバーは、現代の日本に定着している。しかし言っておくが、半世紀昔の若い頃、市ヶ谷の土手伝いで桜吹雪の下を歩いたりしても、同好の鑑賞者とすれ違ったりしなかった。みな先を急いでいた。「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!」も、あまりに有名な文学的一節(梶井基次郎『桜の樹の下には』)だが、屍体でなくても「馬糞」は桜によく効くらしい。生まれた家の近くにある世田谷の馬事公苑に行くのは僕の年中行事で、そこに咲く重たいほどの花の下枝に感激したりしたが、誘う相手はあまりいなかった。 学校というものはどこでも桜の名所になるが、特に何も埋まってなくても、桜はすごい。たとえば、僕の元の職場の東大駒場キャンパスも、グラウンドを囲む土手に見事な桜並木がある。そこで、大学に勤め出した1980年代に、僕がゼミ生を誘って花見をしたのだが、夕暮れは予想より寒く、段ボールで囲いをしながら持ち込みのおでんを震えながら食べるはめになった。そう、実は桜が花開く頃は、まだまだ寒いのだ。花が咲いていて豪奢(ごうしゃ)なもんだから、つい暖かいと誤解をするのだ。地方のお城の花見など、桜の花冠の下で売られている定番はおでんだ。そこで、花見は寒いからやめた方が良いとまで言わないが、寒さには十分注意をするように、とガイドをしておく。酒盛りに参加するときはコートを忘れず、幹事は地面に敷くものの断熱に留意されたい。 などと、桜について書いていると、つい興奮をする。何しろ、最初に生まれた子に「桜

東京を創訳する 第21回 『初春(正〜2月)- 日本が一番日本の日』
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東京を創訳する 第21回 『初春(正〜2月)- 日本が一番日本の日』

1月1日は、1年の内で東京が一番、日本らしくなる日である。 始まりは、前日の大みそかからだ。12月31日は正月の準備に一家は集まり、年越し蕎麦を食べ、みなで延々、4時間半の歌番組、NHK『紅白歌合戦』を見る。この50組近くの歌手が集まる騒がしい番組が23時45分『蛍の光』の大合唱で終わると、突如、テレビからは静寂の中、「ゴーン」とお寺の鐘の音が響いてきて、次の番組『行く年来る年』となる。日本のどこか、暗い中に雪が白く輝く寺社の参道に、人々が無言で集まって来ている。東京の私たちは、「寒そうだね」と心でつぶやきながら、1年の終わり、大晦日の24時を待つ…。 ただし、必ずしもこうとは限らない。人によっては大晦日に恒例の格闘技やカウントダウンコンサートに出かけたり、家にいても部屋で片付けものをしたり、テレビを見るとしてもほかの番組にチャンネルを合わせたり、そもそも団らんには加わらず、借りためてあった連続ドラマのDVDを長時間見続けたりしている。そんな人もたくさんいる。 しかし、そういった人も、「今夜は世間では、定番の紅白と、その後のかったるい番組を見ているんだろうな」と思ったりする。そのくらい12月31日の夜は、典型的な「日本らしい」日なのである。おそらく、2、30パーセントの東京人は、いま書いた通りのことを、そっくりそのまましている。 西洋のクリスマスが家族行事であることと同じである。ただ、日本の正月は、12月28日には仕事を終えて、元旦、1月1日の後、3日まで、同じようなおせち料理の日々が続き、それに飽きた頃にやっと4日の仕事始めとなる。 では、日本人は元旦に何をするのか。朝、みなで集まって「明けましておめでとう」と言い合い、「おせち料理」を食べる。これだけ。この「おせち」は、まさに「The 日本」の食べものである。日本人だって普段は食べない日本料理を食べる。食べるどころか、正月以外は見ることすらない奇妙な「ちょろぎ」という食材も出てくる。みな、作り置きのコールドディッシュであるが、雑煮だけは温かいスープである。なかには青菜とニンジンと、そして餅が入っている。スープがおすましか味噌仕立てか、餅が丸いか角なのかは地域によって異なる。東京はおすましに角もち。異なる地方の人同士が夫婦となると、この相違は、結婚生活を脅かしはしないが、彩を添える論争の種となる。 ただしこのおせち料理、どこかのレストランで食べようとすると、普段のメニューにはない。サンクスギビングの七面鳥料理がレストランのメニューではないように。正月の三が日にホテルに泊まったりすると、ホテルの催し物の中で食べられたりするかもしれないが。 ということで、元旦に東京を訪れた旅行客は、人通りの少ない東京の街を変だなと思ったら、日本人はみな、家の中でそんなことをしているのだ、と納得すればよい。街の店はみな閉まり、レストランで営業をしているところも少ないのだ。 では、そうやって、正月は何もしないのかといえば、1つだけ「日本人の義務」がある。初詣である。『行く年来る年』で、凍てつく深夜、黙々と人々が集まっていたのはその「初詣」に向かう光景なのである。東京でも、正月の三が日、あるいはその1週間くらいは、寺社に、昨年の感謝と今年の幸せを願って、出かけていく。それは半端ではない数である。毎年、東京の明治神宮と浅草寺には、それぞれ300万人が集まる。ほかにも中小の寺や神社は数限りなくあるから、1000万人ほどの東京人は、計算上ほとんど全員、1つあるいは2つくらいの初詣を済ませることになる。 では、正月に日本

東京を創訳する 第20回 『歳末 - 直線と円環、二つの時間の相撃つところ』
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東京を創訳する 第20回 『歳末 - 直線と円環、二つの時間の相撃つところ』

11、12月は、天界の季節ではなく、人間の季節である。寒さからは初冬であるが、今年ももう終わりだ、という世事、人事の感覚が強い。正月が過ぎて、2、3月は時間があっという間に経つ気がするものだが、一年の終わりが近付くとまた時間に追われる。難しく言えば「直線的に進行する時間」と「円環的に繰り返す時間」の、2つの違った時間が年末にぶつかり合うからだ。 直線的に進行する時間はただただ先にと進むのに、12月の次は13月にならず、円環的に1月に戻ってしまう。その元に戻る前に、今年一年の区切りを付ける、お疲れさまでしたと忘年会をするという具合に、ひとまず振り返って、一年を締めくくる。そうしなければ正月とならずに13月になってしまう。 ややこしい話しだが、まずは先に進んで、この時期の東京の祭事、行事について考えてみよう。まずは酉の市だ。11月の「酉の日」に行われる。12支の酉だから、12日ごとにやってくる。たいていは2回来るものだが、2017年のように、一の酉が11月6日(月)、二の酉が11月18日(土)、三の酉が11月30日(木)と、3度来ることもある。昔から三の酉まである年は火事が多い、と言われている。科学的な根拠があるわけは無い。でも、今日のテーマで言えば、3度もやってくるなんて、それだけで「慌ただしい」感じがする。 酉の市は都内では浅草の鷲(おおとり)神社、新宿の花園神社などが有名である。行くと大勢の人が集まっていて、飾り立てた熊手が売られている。鮨屋などで、壁の上の方に飾ってあるのを見たことがあるだろう。客商売の人たち、縁起を担ぐ人たちが買いにくる。酉の市のうんちくはネット情報に任せて、何度か行った経験で言えば、夜になっても人通りが絶えず、屋台も出たりして、買わずに眺めているだけでも楽しくて、つい掌くらいのミニチュア熊手を買ってしまう。いちばん面白いのは、値段交渉が成立すると、熊手屋さんたちが、締めの手拍子で祝うことだ。あちらこちらの手締めの音と声が心を浮き立たせる。 昔話になるが、30年ほど前、バブルの時代のこと、テレビで酉の市からレポーターの実況があって、そこに居合わせたのかテレビ局の仕込みなのか、当時有名だった株の相場師が熊手を50万円で買って、熊手屋さんが何度も何度も繰り返して手拍子で締めていたのを思い出す。(あの人その後落ちぶれてしまったなぁ) 市と言えば、浅草寺の羽子板市、というのも華やかだ。なぜか僕の実家は伝統的なしきたりを守るような雰囲気では無かったのに、母は親戚に女の子が生まれると羽子板を買って贈りものをしていた。わが家の娘2人にも羽子板が届いた。僕自身は小さいとき、はねつきに使えない羽子板、というのが理解しがたく、興味は無かった。長じて学生たちと浅草の羽子板市に出かけていった。賑やかさは酉の市ほどではなく、むしろ行ったときが最終日の最後のほうだったようで、人通りも少なくなった中、売れ残った羽子板と着物姿の女たちが、電灯に照らされているのに哀れさがあって、戦前の情景のようだった。 こうした「市」とは昔から、神社仏閣の場所を借りて行われる臨時のマーケットで人を集めるものだ。中でも一年の最後、「歳の市」は円環的時間の尻尾で、豊かな人だけでなく、貧しい人も1年に1回だけ取り替える日用品を求めることもあって、大きな人出となる。私の育った東京世田谷には、江戸時代には古着などを売買していたのだろう、『ボロ市』というあまり有りがたくない名で呼ばれる市があった。小学校に入

東京を創訳する 第19回『空と冷気』
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東京を創訳する 第19回『空と冷気』

タイムアウト東京 > アート&カルチャー > 東京を創訳する > 東京を創訳する 第19回『空と冷気』 テキスト:船曳建夫 東京の秋、9、10月は、空の高さと冷気が魅力である。空気が澄んでいて、雲が高いところにある。さわやかな風が吹く。遠くの音が聞こえてくる。道を歩く子どもの話し声、思いがけず東京湾の汽笛が聞こえ、まだ葉が落ちない木々が風にさざめく。 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 秋は良い。盛夏を過ごしたあと、額の汗が乾いていくように、生き返った心地がする。この古今集の歌はそんな心持ちを詠んだのだろう。 ただ、9月に入ったらすぐこうなるわけではない。この歌のポイントも、目の前は暑い夏の光景なのに、その中に秋を感じ取るところにある。これに限らず、日本列島の季節感はすべて先取りである。東京では桜は3月の末に咲くのだが、3月を過ぎればもう花見の話をする。同様に、9月になれば、気分だけは「今はもう秋、誰もいない海」とカレンダーをめくってしまうのだが、残暑というものが半月も居座る。梅雨明けと同時に始まる夏とは違って、秋はゆっくりとしか進まない。しかし「まだ暑いよ、一体今年は何なんだ」とぼやいていると、ある朝、気が付けば周りは夏の喧噪とは異なり、しんと静かな秋となっているのだ。 私は外国で、「東京にはどの季節に行ったらいい?」と聞かれると、10月と答えることにしている。特に10月に何かがあるわけではない。もちろん秋の葉の色づきはある。黄葉だったら神宮外苑のイチョウ並木、紅葉だったら六義園が挙がるだろう。でも日本各地の紅葉の名所と比べると、とうてい横綱は張れない。しかし、「東京の中にすべてはないが、東京に来ればすべてが手に入る」がこの都市のキャッチフレーズだ。観光でもショッピングでも食べ歩きでも、東京に来たらすべてが手に入る。紅葉が見たいのだったら、東京から足を延ばせば、日本で紅葉のベストである京都にも日光にも日帰りで行くことができる。負け惜しみではなく、これも「東京」という街が持つキャパシティなのだ。それでも個人的に好きな東京の黄葉は、皇居の御壕端(おほりばた)、桜田門から日比谷にかけての街路樹である。車で通り過ぎると一瞬だが、青い空との対比が素晴らしい。この街路樹の風景に限らず、広大な皇居があることは、東京という巨大都市に空を開くことになっている。ことに日比谷からの視界には、小高いところにある国会議事堂の上を含めて、広い空が広がっている。秋はその空があくまでも澄んで高いのだ。 この連載は読者として外国人旅行者を念頭に置いているが、書き手である私はこの街の居住者なので、パリの人間がエッフェル塔に上らないように、東京の観光スポットにあまり興味はない。自ずとここに書くことも、東京に暮らしていることで感じられる街の魅力や面白さとなる。それでいいのではないだろうか、と思う。私もフィレンツェに行ったら、美術館の名画だけでなく、住む人が感じる街の表情を知りたいと思うからだ。だから、外国からの友人にライトアップされた紅葉のスポットを勧めたりはしない。「綺麗は綺麗だけれど、混んでて大変だよ。紅葉でなく、人間観察だったら良いけれど」と言うだろう。東京に秋に来ることを勧めるのは、気候の良さからだ。8月は日照りに苦しむし、12月にはすでに防寒着が必要で、旅の荷物が増える。9月の後半から10月は、晴れの多いすがすがしい空の下、街を歩いていて、体も心も軽い。「読書の秋」とよく言われるのだが、何となく人々も、浮かれはしゃぐ気分より静かに幸福な気

東京を創訳する 第18回『夏祭り』
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東京を創訳する 第18回『夏祭り』

東京の1年間の気候と人の営みは、四季というより、2ヶ月ごとに6分割される。その6つの季節をこれから1年、その時期に応じて紹介していくが、今回は7~8月、夏である。 北半球、特に欧米では、夏は6月から始まり8月に入るとすでに秋が忍び入り、リゾート地ではホテルやレストランで働く人たちが、バカンスの働き疲れでげんなりしてくる。東京ではそれより遅く、7月に梅雨が終わるとかっと暑くなって、8月を通り越して9月の初めまで夏の勢いはそのまま続く。この時期東京人は、丸々2ヶ月蒸し暑さの中にいるので、「熱中症への対策」とか「残暑は一体いつまで」といった具合に、夏は悪いことのように語られることがある。しかし私の眼には、東京のこの2ヶ月は、青空と盛り上がる雲、そして繁茂する樹木の緑の深さがそれは見事で、誇らしいまでのエネルギーに溢れているように映る。 江戸、東京の祭も夏祭りの性格が強いのは、大都市のエネルギーと符丁が合うからだろう。御輿(みこし)を担いで数日間もみ合い、水をかけあい、人混みの中で騒擾(そうじょう)たる気分に酔う。何といっても浴衣がユニフォームであり、この時ばかりは、滅多に目にしないふんどし姿がきりりと締まって見える。まさに夏だ。 ところが、東京の三大祭りというと神田祭、山王祭、深川祭であるが、それぞれ5月の中旬、6月の中旬、8月中旬に行われる。とすると、私が言う「夏」、7~8月ではないだろうと突っ込まれそうであるが、そこには都市の論理とイメージが強く働いている。 近代以前、日本のほとんどは農業地帯であって、農村の祭というとその年の収穫を祝う小規模の「秋祭り」が主流であった。現に私は東京生まれであるが、今の皇居の江戸城からは遠く離れた世田谷区、昔でいえば武蔵野で育ったので、祭といえば9月末から10月に近くの神社で行われる秋祭りのことであった。一方、都市の祭は農民ではなく町人や商人、職人らの行いであり楽しみであるが、彼らの1年のリズムは農業暦に対応していない。祭祀(さいし)の日程は、まつられている祭神(さいじん)それ自体の由緒や性格に関わってくるのだが、ご神体である御輿は元気がよいことが神の威勢とみるのだから、担ぐ人は大いに暴れ、騒ぐ。そのためには、着膨れた姿より、軽装、裸に近い格好となる。さすれば、それには夏が選ばれることとなる。 神田祭が旧暦の9月半ば(今の暦だと10月半ばくらい)だったのが5月半ばに移されたのは、夏の開放感とエネルギーの「イメージ」から、夏を先取りする目的で選ばれたのだろう。かつ、江戸の二大祭であったライバルの山王祭とは時期が重ならないことも考えれば5月半ばだと落ち着く。一方、山王祭は元々、旧暦で6月半ば(今の暦に直せば7月)の盛夏の時期であったので、6月半ばのままでもよい。深川祭は旧暦の8月半ば、今で言えば9月の半ばだったのだが、元から「水掛け祭」と呼ばれ、御輿の担ぎ手に水をかけることになっているように、盛夏のイメージそのままなので、新暦で8月半ばならかえって都合がよい。 大事なのは、エネルギーの解放で、それが神と祭の勢いに重なるという点である。東京以外で大きな祭となっている京都の祇園祭、大阪の天神祭、博多の博多祇園山笠など、全国的に有名な祭が総じて夏に行われるのも、同じく、夏の豊穣(ほうじょう)さのエネルギーと都市のエネルギーとが重なるからだろう。 興味深いのは、こうしたエネルギッシュな祭

東京を創訳する 第17回『歌舞伎ー昔と今(3)』
アート

東京を創訳する 第17回『歌舞伎ー昔と今(3)』

戦後、歌舞伎はやるせないほど廃れていた、という話はすでにした。その後は、というと、前回書いたように1960年代の後半に、三之助(市川新之助(十二代目市川団十郎)、尾上菊之助(今の菊五郎)、尾上辰之助(今の松緑のお父さん)の3人)が現れ、次いで孝玉コンビ(片岡孝夫(今の仁左衛門)と坂東玉三郎)が人気となり、客が戻った、と簡単な話で終わってしまう。皆関係者は「伝統が消滅するのか……」と、焦って右往左往していたのだが、スター誕生で暗雲はすべて消し飛んだ。  この日本列島はそんなところがある。「狂言」というものも、誰も見なかったし、誰も知らなかった、と等しい状態から、野村萬斎という若者が一人現れると、状況は一変して、狂言師を囲む「ディナーショー」が成立する。この日本列島では、「スター」という「人間」がなにしろ耳目を集める。だから不振を極めるジャンルを蘇生させたいのなら、スターを生むことである。そこには偶然もあるが、地盤が乾ききっては芽も出ない。戦後、歌舞伎がやるせなかった時代に、役者たちや松竹はじっと耐えて、枯死を切り抜けていた。それは賞賛に値する。  それに加えて後で紹介する、松竹経営の歌舞伎座が建て直さなければいけなくなり、それによる数年の空白がどうなるか、と思ったのだが、2010年に閉場する前に16ヶ月(前代未聞!)にわたる「さよなら公演」を打ち、ほぼ3年の後、2013年の開場に当たり、これまた12ヶ月の「柿葺落(こけらおとし)公演」を行い、再び客足を取り戻した。それからは、役者の艶聞や不幸までも、すべて歌舞伎上昇の二段ロケットとなり、今に至る。  こうしたことも、江戸以来の歌舞伎というジャンルにとっては、変わらぬ姿なのだ。古典の「芸」とかを賞揚する人もいるが、エンターテインメントとして面白いか否かが存続の核心であり、そのためには、「役者」という個人の努力に支えられた「華」が必要なのである。しかし、上がったものはいつかは下がる。歌舞伎の隆盛がいつまでも続くことはない、はずだ。下がったとき、それを歌舞伎役者の家が支えるのか、今度は国が支えるのか。それは今からは分からない。観る側としては、栄えている今の内に歌舞伎を楽しむに如くはない。  さて、その歌舞伎をどうやって観ればよいのか。初めて歌舞伎を観ようとしているあなたにその方法を伝授する。 1)どこに観に行くか。東京都中央区東銀座にある歌舞伎座がよい。松竹の宣伝をしているわけではなく、詳細は省くが、最初に観るのならそこがよい。 2)何を見るのか。まずは「歌舞伎座」のウェブサイトでチェックする。今月、来月、再来月、と出ていたら、再来月くらいの、切符がまだ売り出されていない公演の方がよい席を取れるのでお勧めする。昼の部、夜の部、とあるが、どちらも都合がつくとしたら、演目は知っていたり、好きだったりする役者が出ているのを選ぶ。多少なりとも舞台に親しみが湧く方が「古典」というハードルを克服するのに助けになる。週刊誌やテレビで見ていたりする人が、生身で出てきて「実演」するのは見て面白い。 3)ひとつの公演に3つか4つの演目が並んでいたら、その中に、古典ひとつと踊りがひとつあるかどうかを確認するとよい。「古典」は分かりにくくても、わざわざ歌舞伎に行くのなら「古典」を見なければ意味がないし、「舞踊」は分からなくても観ているだけで面白い。 4)その「古典

東京を創訳する 第16回『歌舞伎ー昔と今(2)』
アート

東京を創訳する 第16回『歌舞伎ー昔と今(2)』

今回は前回の「かつてのやるせない」ほど衰退した歌舞伎が、いかにして連日満員の今日を迎えたかについてお話しするのだが、そこを歌舞伎とは何か、から始めて、詳しく説明しよう。起きたことだけで言えば、「三之助と孝玉コンビという若手スターの誕生で、客が戻った」と1行で終わってしまうから。

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