深川祭り
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東京を創訳する 第18回『夏祭り』

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

テキスト:
Time Out Tokyo Editors
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テキスト:船曳建夫

東京の1年間の気候と人の営みは、四季というより、2ヶ月ごとに6分割される。その6つの季節をこれから1年、その時期に応じて紹介していくが、今回は7~8月、夏である。

北半球、特に欧米では、夏は6月から始まり8月に入るとすでに秋が忍び入り、リゾート地ではホテルやレストランで働く人たちが、バカンスの働き疲れでげんなりしてくる。東京ではそれより遅く、7月に梅雨が終わるとかっと暑くなって、8月を通り越して9月の初めまで夏の勢いはそのまま続く。この時期東京人は、丸々2ヶ月蒸し暑さの中にいるので、「熱中症への対策」とか「残暑は一体いつまで」といった具合に、夏は悪いことのように語られることがある。しかし私の眼には、東京のこの2ヶ月は、青空と盛り上がる雲、そして繁茂する樹木の緑の深さがそれは見事で、誇らしいまでのエネルギーに溢れているように映る。

江戸、東京の祭も夏祭りの性格が強いのは、大都市のエネルギーと符丁が合うからだろう。御輿(みこし)を担いで数日間もみ合い、水をかけあい、人混みの中で騒擾(そうじょう)たる気分に酔う。何といっても浴衣がユニフォームであり、この時ばかりは、滅多に目にしないふんどし姿がきりりと締まって見える。まさに夏だ。

ところが、東京の三大祭りというと神田祭、山王祭、深川祭であるが、それぞれ5月の中旬、6月の中旬、8月中旬に行われる。とすると、私が言う「夏」、78月ではないだろうと突っ込まれそうであるが、そこには都市の論理とイメージが強く働いている。

近代以前、日本のほとんどは農業地帯であって、農村の祭というとその年の収穫を祝う小規模の「秋祭り」が主流であった。現に私は東京生まれであるが、今の皇居の江戸城からは遠く離れた世田谷区、昔でいえば武蔵野で育ったので、祭といえば9月末から10月に近くの神社で行われる秋祭りのことであった。一方、都市の祭は農民ではなく町人や商人、職人らの行いであり楽しみであるが、彼らの1年のリズムは農業暦に対応していない。祭祀(さいし)の日程は、まつられている祭神(さいじん)それ自体の由緒や性格に関わってくるのだが、ご神体である御輿は元気がよいことが神の威勢とみるのだから、担ぐ人は大いに暴れ、騒ぐ。そのためには、着膨れた姿より、軽装、裸に近い格好となる。さすれば、それには夏が選ばれることとなる。

神田祭が旧暦の9月半ば(今の暦だと10月半ばくらい)だったのが5月半ばに移されたのは、夏の開放感とエネルギーの「イメージ」から、夏を先取りする目的で選ばれたのだろう。かつ、江戸の二大祭であったライバルの山王祭とは時期が重ならないことも考えれば5月半ばだと落ち着く。一方、山王祭は元々、旧暦で6月半ば(今の暦に直せば7月)の盛夏の時期であったので、6月半ばのままでもよい。深川祭は旧暦の8月半ば、今で言えば9月の半ばだったのだが、元から「水掛け祭」と呼ばれ、御輿の担ぎ手に水をかけることになっているように、盛夏のイメージそのままなので、新暦で8月半ばならかえって都合がよい。

大事なのは、エネルギーの解放で、それが神と祭の勢いに重なるという点である。東京以外で大きな祭となっている京都の祇園祭、大阪の天神祭、博多の博多祇園山笠など、全国的に有名な祭が総じて夏に行われるのも、同じく、夏の豊穣(ほうじょう)さのエネルギーと都市のエネルギーとが重なるからだろう。

興味深いのは、こうしたエネルギッシュな祭が、都市の旺盛(おうせい)な活動の反映としてあることから、季節の移り変わりという情緒的な変化のみならず、過ぎゆく時代の社会変化をもろに反映していることである。歴史を振り返ると、神田祭も山王祭も江戸幕府の繁栄と庇護(ひご)の下にあったから、幕末から明治期には縮小され、山王祭などは、幕末の最後の2人の将軍が京都に滞在することになると、すっかり勢いを失った。その後も、細かくは省くが、関東大震災と第二次大戦の歴史的大災厄や、自動車や路面電車による交通事情で山車や御輿の練り歩きが制限されることにより、次第に衰微するかに思えた。

ところが、第二次大戦後は、日本の経済が復興するとともに、祭の熱量は、むしろ上がった。焼失した神社が再建され、御輿が復活し、祭の大きさと華麗さの競争が加熱しているかのようである。1991年に作られた深川祭の、輝く黄金の大御輿などは重すぎ(4.5トン)て担げないので鎮座するだけとなり、代わりに担ぐことができる小ぶりの御輿(それでも2トン!)を作った、といういかにもバブルの時代を彷彿(ほうふつ)とさせるエピソードもある。

ただ、東京の祭がこれからも続くかどうかというと悩みはある。地元の氏子の数は少なくなり、高年齢化し、本来の意味での祭の担い手が減少してきている。実際、私の仕事場がある東銀座の鐵砲州(てっぽうず)稲荷神社もその問題を抱えていることは話に聞く。現代の日本社会で起きている社会問題がそのまま東京の祭にふりかかっているのだ。

今年は深川祭は3年に一度の本祭りで、さぞかし人出が多かろうと思う。とりわけ、今回はこのタイムアウト東京の読者、それも外国人観光客が、人出をさらに盛り上げるのかもしれない。こうした都市の祭が、氏子たちの神事の性格だけでなく、外から来る人の物見遊山の性格をも持ってしまうことは、すでに江戸時代から始まっている。深川祭が異様な人出に膨れあがって、永代橋が落ち、1400人以上の死者が出たのは1807年のことである。

氏子が減るのと表裏一体で、これら3つの祭を見よう、御輿を担がせてもらおうと、祭の日にやってくる人は逆に増えている。今ではそうした担ぎ手無くては御輿は動かせないようである。ましてや「見る」観光から「する」観光となれば、日本人と言わず、外国人観光客の中にも担がせてほしい、という人は少なからずいるかもしれない。よくは知らないが、ニュースを見ると、御輿を担いでいる人は皆、揃いのはっぴ姿で決めているようである。あれは祭の雰囲気を壊さないように、との主催者側のドレスコードなのだろう。だとすると、いまや2000万人を超すと言われる外国人観光客の中にも、ふんどし姿に挑戦する人が出てくると思われる。それは喜ばしい光景だ。やはり、祭は続くのだ。

船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。近著に『歌舞伎に行こう!』(海竜社)を2017年1月13日に発売。高校生の頃より歌舞伎を観続けてきた著者が、いつかは歌舞伎を見たいと思っている人に向けて、ガイドしているエッセイ集だ。ほか、著書に『旅する知』など。

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