インタビュー:石井岳龍

東京、白昼夢、ドラゴン。映画でパンクを表現する

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インタビュー:マット・シュライ
写真:谷川慶典

石井岳龍(旧名 石井聰亙)は、1957年に福岡で生まれた。パンク ロックの先駆者セックス・ピストルズや日本のバンド、スターリンやルースターズと同世代である。石井は長年、パンクとDIYの精神を持ちながら映画制作に携わってきた大胆な映画監督の1人として、国内外で高評価を得ている。町田康原作の『パンク侍、斬られて候』(6月公開)の映画を監督したことでも大きな話題を呼んでいる。2018年3月13日(火)~25日(日)には、東京国立近代美術館フィルムセンターで『自選シリーズ 現代日本の映画監督6 石井岳龍』が開催される。パンクな作風や、映像制作のきっかけ、改名した理由、新作について話を聞いた。

『爆裂都市/BURST CITY』

ギターを叩き、血をまき散らし、不協和音を鳴らしていた

—パンクな作風で知られていますが、パンク ロックを初めて聞いた時を覚えていますか。

はっきり覚えています。セックス・ピストルズでした。当時は、とても貧乏だったので、自分のレコードプレーヤーを持っていなくて。友人の家で聞きました。

—アルバム『Never Mind the Bollocks(勝手にしやがれ!!)』ですか。

そうです。はじめはよく分からなかったのですが、本当に耳から離れなかったんです。当時の私にとっては、多くのものがこんな感じでした。ボブ・マーリーを聞いた時も同じで、はじめは「これは何だ」と思いました。でも、ゆっくりとこの音楽は私にとって重要なものになっていくのを実感しました。

—パンク音楽を知る以前から、すでに8ミリ映画を制作していたのでしょうか。

そうですね。『高校大パニック』(1976年)と『1/880000の孤独』(1977年)はどちらも8ミリで作っています。 高校生の時にバンドを組んでいましたが、それは「パンク」という言葉を耳にする前の話です。今思うと、ギターを叩き、血をまき散らし、不協和音を鳴らしていました。もし、私たちがやっていたことを「パンク」と呼ぶことを知っていたら、続けていたかもしれません。

—映画の世界に入ったきっかけは何でしょう。

子どもの頃から映画に興味があったんです。音楽や書くことには向いていませんでしたが、カメラを通して自分自身を表現できるかもしれないと感じていました。最初の作品は『高校大パニック』でした。映画を見せた時、周囲の人は、面白いと言ってくれました。誰かが私をほめてくれたのは、その時が初めてでした。私にとって、これは快感でした。子どもの頃から、私は自分自身を表現したいという欲望を持っていたのですが、どうやって満たせばいいのかが分かりませんでした。映画制作がすべてをつなげてくれました。

—それが、パンクの精神と映画が融合した瞬間ですか。

そうですね。セックス・ピストルズ、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、多くのバンドのメンバーが私と同い年でした。私と同じように、世界中の若者が物事について考えていました。それが励みになった大きな根源でした。まるで、パンクがそこに私自身の身を置くことを許してくれたように感じます。自分を表現することが技術よりも重要だという考えがありました。

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和製パンクの非道さや無謀さを詰め込んだ

—今回の特集で上映される作品名を挙げるので、心に浮かんだ最初の言葉を教えてください。まずは、1980年公開の『狂い咲きサンダーロード —Crazy Thunder Road−』から。

「初期衝動」ですかね(笑)。映画を撮影したときは22歳でした。

—スタッフや役者が、無給で働いていたというのは本当ですか。

その通りです。逆にお金を払った人もいます。この映画は卒業制作で、学校の仲間と自分の制作グループで作りました。私たちは自分たちのことを「狂映舎」、つまり「狂った映画」と呼んでいました。

—互いのプロジェクトを手助けし合ったのでしょうか。

自分の映画を作っていない時は、ほかのプロジェクトのカメラマンや助監督として手伝っていました。当時は若かったので、エネルギーが有り余っていましたから。

—現在、大学で教えられていますよね。近頃の若者はどうですか。

最近の子は、本当に自分を表現しませんね。静かですよ。でも、彼らは多くの可能性を秘めています。

—次の映画は1982年公開の『爆裂都市/BURST CITY』でしたね。

暴動」、良い意味と悪い意味の両方で。『爆裂都市』には、当時の日本のパンクの非道さや無謀さを詰め込みました。良い意味でも悪い意味でも。これが私が描写しようとしたものでした。

—最終カットに満足していないと聞いたことがあるのですが。

プロジェクトの時間切れでした。本当に納得できませんでした。

—今見ても、同じように感じますか。

そうですね、でもこれが私が作ったすべてなので。自分の映画を再度見るときは、思い描いたようにいかなかった部分は全部気付きます。

—では、1981年公開の『SHUFFLE』。

「走れ。走るために生まれてきた」。

—本作は、漫画『AKIRA』などで知られる大友克洋の原作『RUN』を基にしていますが、使用許可を取らなかったそうですね。

そうですね。著作権について考えもしませんでした。ただ、先走って作ってしまいました。完成した作品を、大友さんに見せると、「石井さんがしたことは、本来するべきことではないですが映画は面白いです」と言って、許可を出してくれたんです。 ちなみにサウンドトラックも無許可で使用していました。イギリスのバンドの曲です。そちらは大きな問題になり、すべて差し替えました(笑)。

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映画『DEAD END RUN』撮影現場での永瀬正敏(左)と石井岳龍

東京が美しくも恐ろしい都市であると感じた

—次の映画は、1984年公開の『逆噴射家族』です。

「破壊」です。

—『逆噴射家族』と1994年公開の『Angel Dust エンジェル・ダスト』の間は10年間の空白がありますね。

本当に作りたかった映画がありましたが、形にならなかっただけです。時代も変わりつつありました。バブルの影響で、パンク映画への興味は薄れ、いわゆる「トレンディドラマ」の人気が増しました。自分が望む種類の映画を作ることが、厳しくなりました。海外に出て何かを得ようとしましたが、それも上手くいきませんでした。これが10年間続きました。とてもつらい時期でした。

—『Angel Dust エンジェル・ダスト』。

「悪夢」。

—「悪夢」は映画のストーリーを指していますか。それとも自分自身についてでしょうか。

『エンジェル・ダスト』の前に、ロンドンに約1年行って、世界を旅しました。戻ってきた時に、東京が全く違う街のように感じました。この地平線から広がる巨大な人口都市を、美しくも恐ろしいと感じたのです。山手線に乗ると、恐ろしい感じがさらに強まりました。電車に乗っている人から、一種の血の渇きに似た残酷さを感じました。これはオウム真理教の事件の直前だったこともあるのでしょう。

—映画は山手線での殺人事件を軸として展開します。1994年の秋に公開されて、オウムの襲撃は、1995年の春に起きていますね。

襲撃を実行した人物は、私と近い年齢でした。彼らは現実の世界で事件を実行しました。私にとって大きな衝撃で、この事件は映画制作へのアプローチを変えました。

—1995年公開の『水の中の八月』。

「良い夢」です。実際には、『エンジェル・ダスト』と本作は同時に思いつきました。『エンジェル・ダスト』は美しく、恐ろしい東京の街なのに対して、『水の中の八月』は、それまで探求してこなかった自分自身の精神面に迫っています。アニミズムや精霊信仰を通してアジアからアフリカ、そして宇宙に繋がる精神的概念を考えていました。パンクからできるだけ遠ざかってみたと言えます。

—1997年公開の『ユメノ銀河』。

これは「迷宮(ラビリンス)」ですかね。

—浅野忠信と初めて仕事をした作品ですよね。

そうですね。セリフが本当に少ない役でした。浅野さんは心の感受性が豊かで、恐ろしいほどの演技的資質を持ち合わせていたので、それが本当に上手く作用しました。

—2000年公開の『五条霊戦記 GOJOE』。

五条は「暗い夢」かな。 当時は、あまりアクション映画に興味はありませんでした。一種のアンビエントな雰囲気を欲していました。心理的なダメージにまだ苦しんでいたので、「落ち着く」ような映画を作りたかったのです。今考えると、もっとアクションを入れるべきだったかもしれませんね。この頃は、マトリックスが公開された時期で、「それを単に真似ることはできない。私だけができる何かをしなければならない」と考えていました。

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『パンク侍、斬られて候』より (C)エイベックス通信放送

8万ボルトの電流を帯電した、東ヨーロッパの老女から

—アンビエント性が低い『ELECTRIC DRAGON 80000V』。

「反発」ですね。

これもアンビエントにするつもりでした。『五条霊戦記 GOJOE』を終えた後に、少し不満を感じたので、本作に野生的な面を取り入れることにしました。最終的に、あるべき激しさになったことに満足しています。

タイトルの「80000V」は、8万ボルトの電流を帯電した、東ヨーロッパの老女からきています。これは人類の帯電の世界記録でした。また実際に、映画の主人公のように、高圧線の衝撃を受けた知り合いがいました。彼の全身と顔はやられましたが、奇跡的に生き延び、素晴らしいロックンロールを演奏するミュージシャンとして活躍しています。彼に対する敬意も込めています。

—なぜ白黒で撮影することにしたのですか。

当時は、白黒に夢中でした。白黒は最も美しく映画を撮る手法の1つだと思っています。色を使うと、徐々に色あせていきますが、白黒は、美しい光と影のきらめきを保ちます。

—2003年公開の『DEAD END RUN』はいかがでしょう。

キーワードは「選択」です。不可能な状況の中に、生き残るすべを見出すことを描きました。

—『DEAD END RUN』と『生きてるものはいないのか』の間に再び長い期間がありますが、その時は何をしていましたか。

それまでの私の映画作りの方法には、自己流のところがあると感じていました。基礎から映画作りを学び直そうと考えていました。日本の映画は本当に変わりました。いわゆる製作委員会というものの存在です。そこでは企業が一緒になって映画の資金を調達し、リスクを分散します。これでは月並みなものになりがちです。ちょうどその頃、大学で教えないかというオファーがあり、教鞭(きょうべん)をとることを決めました。デジタル技術によって映画作りが大きな変化を迎えようとしていると思いました。それで私自身、時間をかけてデジタルを勉強して、次の世代の映画制作者たちを育て、ともに成長ができないかと考えました。

—その後に名前を変えていますが、なぜでしょう。

名前を変えたのは、『生きてるものはいないのか』の制作中に、自分がこれまでに何もしてきていないように思えたからです。なので名前を岳龍、ドラゴンに改めることにしました。この名前はずっと使いたいと思います。

—なぜ、ドラゴンなのですか。

エネルギーや野生の象徴だからです。同時に慈悲の心も含まれます。ドラゴンは悪を意味するだけではないのです。ある種の神聖さも持ち合わせています。凶暴性と精神性を併せ持つところが、一番惹かれたところです。

—2011年の『生きてるものはいないのか』のキーワードは何でしょう。

「不条理」。

—2013年の『シャニダールの花』。

白昼夢」。

—2015年の『ソレダケ』。

「生と死の向こう側」。

—2018年の6月に新作『パンク侍、斬られて候』の公開が予定されていますが、本作について少し教えていただけますか。

キーワードは「完全な想定外」。あるいは「神話」です。タイトルは『パンク侍、斬られて候』ですが、スプラッター映画ではありません。

—町田康が2004年に発表した小説が元になっていますね。

そうです。文学作品です。最近の日本映画はわかりやすいドラマが主流です。純粋なエンターテインメントを望むプロデューサーがいる一方で、私のようなアバンギャルドなエンターテイメントを撮りたい監督もいます。私たちには葛藤が絶えません。

—完成しましたか。

いいえ、CGと音を制作中です。こんなにたくさんCGを使うのは初めてです。とはいえ、本当に想像を超えたエフェクトです。これまで見たことがないようなね。

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石井 岳龍(いしい がくりゅう)

福岡県出身の映画監督。大学入学直後、学生による自主映画グループ「狂映舎」を設立し、8ミリ映画デビュー作『高校大パニック』を撮り、熱狂的な支持を得る。卒業制作の『狂い咲きサンダーロード—Crazy Thunder Road−』が東映によって劇場公開。インディーズ界の旗手として名を馳せる。2011年、石井聰亙(そうご)から岳龍に改名し、『生きてるものはいないのか』を発表。2006年から神戸芸術工科大学で教授として教鞭をとっている。

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