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アートの専門家が文化政策に必要な理由

ニューノーマル、新しい文化政策 第4回 平田オリザ

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Kosuke Shimizu
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タイムアウト東京 > カルチャー > ニューノーマル、新しい文化政策 第4回 平田オリザ

社会の在り方を大きく変容させた新型コロナウイルス感染症。連載シリーズ『ニューノーマル、新しい文化政策』では、アートプロデューサー、森隆一郎(合同会社渚と代表)のディレクションのもと、コロナ禍が文化政策に及ぼす影響やパンデミック後の在り方を探っている。第4回に話を聞くのは、劇団「青年団」主宰で、さまざまな自治体の文化政策に関わってきた劇作家の平田オリザ。アーツカウンシルの意義や芸術監督制度の是非、コロナ禍で大打撃を受けた舞台芸術と観光業を専門とする大学、『芸術文化観光専門職大学』などについて聞いた。

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『芸術立国論』のころは人の痛みが分かっていなかった

―平田オリザさんは、2001年のご著書『芸術立国論』以来、日本における芸術文化の在り方についてさまざまなご指摘やご提案をされてきました。『劇場、音楽堂等の活性化に関する法律(劇場法)』の制定や、各自治体でのアーツカウンシル設立の流れなど、そのうちのいくつかは現実のものとなっているように思います。『芸術立国論』出版からちょうど20年がたちますが、その達成度において満足している点や、「ここはまだまだ」という部分があれば教えてください。 

満足とか不満という感覚はないですね。私は政治家でも社会運動家でもなくアーティストですから、与えられた環境のなかで活動しますし、だめなら亡命するとか(笑)。文化政策に関することは、たまたま大学でそういう授業を受け持っているとか、もっと言うと各自治体からお願いされるからやってきたことであって、演劇そのもの以外のことで自分からやりたくてやったことは一つもないので。

それを前提に話すとすれば、もちろん想像通りになった部分と想定外の部分とがあって、『芸術立国論』のことで言えば、若かったこともあって「人の痛みがまだ十分には分かっていなかったな」という感じはあります。産業構造の転換は避けられないから第三次産業を核として、その基礎研究である文化芸術に力を入れないと日本という国は立ち行かなくなる、という理屈としては当然のことを今も昔も言ったり、書いたりしています。ですが、やっぱり製造業に就いている人たちの「寂しさ」のようなものについて、『芸術立国論』ではあまり触れていなかったですね。

―産業転換に付随する「寂しさ」のようなものというと、炭鉱の町だった福島県いわき市の実話をもとにした映画『フラガール』や、やはり石炭産業の終わりとともに衰退する町を描いた英国映画『ブラス!』などを例に出しながら『芸術立国論』以降の文章で積極的に言及している点ですね。

そうですね。そういう状況は、その後の小泉内閣による構造改革でより進むわけだけど、小泉さんは「改革には痛みが伴う」と、その「痛み」がどういうものかも考えず無邪気に発言してきました。その「痛み」の本質というのが、実は精神的な痛みなんだということを『芸術立国論』以降、いろいろなところで書いてきました。『ポリタス』に寄稿した記事『三つの寂しさと向き合う』などがその代表です。

日本はもはや「工業立国ではない」「アジア唯一の先進国ではない」「高度経済成長はない」ということ、その「寂しさ」を受け入れられない人が一定数いるんだ、そことも寄り添っていかなければならないということを誰よりも書いてきたつもりだったんですが、コロナのことで人の気持ちがさらにささくれて、私の発言さえも昨年炎上するということがありました。

―『フラガール』の福島県いわき市の場合は成功例として語られますが、炭鉱ということでいうと早くも1950年代前半には閉山ラッシュによる「戦後最初のリストラ」とも呼ばれる鉱山労働者の大量解雇があり、その後には文字通り村一つが丸ごとなくなってしまうことすら実際に起こっています。産業構造の転換というのがそれだけ影響力の大きなものであることを踏まえた上で、コロナ禍におけるさまざまな支援制度の対象が第二次産業を中心としたものになっていて、現状に即していないというご発言だったと理解しています。

エコノミストが当たり前のように言っていることでも、当事者の芸術家が言うと理解してもらえない。産業構造の変化に伴う「寂しさ」については私が最も言ってきたつもりだったんですが、社会の分断が思った以上に進んだということでしょうね。こうなってしまうと、もはや理屈ではない。要するにトランプ支持者と同じで、取り残されていく感覚を持った人たちが、実際には自分の利益と反する行動をどうしても取ってしまうという構造ですね。

届けたい人に届かないというジレンマ

―平田さんのおっしゃる「寂しさ」「心の痛み」については、まさに文化や表現が処方せんとなり得るものだと思うのですが、一方で芸術というと「エリートのもので自分たち大衆には関係ない」というような発言を今もまだよく聞くように思います。

そうですね、アートマネジメントでよく言われることなんですけど、アートというのは届けたい人に届かないというジレンマがあるんだ、と。「弱者のためのアート」とか「社会包摂」とか、言うのは簡単なんだけど実はそんな簡単なことではなくて、このジレンマから出発しないと何の問題解決にもならないということです。

先ほどのトランプ支持者の構造にも通じる話ですね。

もう一つ、「身体化された文化資本」の格差が広がっている問題もあります。特に東京の富裕層の子たちは小さいころからアートにすごく触れていますよね。今は中学受験でさえもそういったことが問われるようになってしまっていて、そうなると、たとえば塾業界なんかは早いです。商売だから。SAPIXは6、7年前にはもう僕のところに「演劇のワークショップやりたいんですが」って来てますからね。

―「身体化された文化資本」は社会学者ピエール・ブルデューの用語で、第2の「芸術立国論」とも言うべき著書『新しい広場をつくる』のなかで平田さんは、お金で買うことのできる書籍や美術品とも、大人になってからでも努力で身に付けられる資格のようなものとも違う、地域や家庭の環境によって自然と獲得される文化資本と説明されていますね。そういった環境が進学塾で整えられるとすると、ますます経済的な格差の影響が強くなるように思います。

これはトマ・ピケティの理論でも言われることですが、戦後は、階層社会が一度フラットになったため、金持ちが身体的文化資本を持っているとは限らなかったんですよね。成金が馬鹿にされたりとか、没落階級で身体的文化資本だけはあるとか、貧乏でも心が豊か、というような逆転現象が現実にあり得たんだけど、2代目、3代目になって徐々に社会が固定化されて格差が広がっていく。

 

平田オリザ
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ブルデューもピケティもフランス人ですが、フランスはまさにそういう社会で、すごくいろんな政策をしているんだけど、それでも、この逆転が起こりにくいというのはありますね。これだけ逆転が起こりにくい社会になってしまうと、弱者はもう開き直るしかなくって「エリートが何を言っているんだ!」と怒るしかないんです。知識層が何か言えば、それは全て「上から目線」とされる。そこにはもう理屈も何にもなくって、憎しみしかない。

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「芸術家はそんなに偉いのか」

一昨年の『あいちトリエンナーレ』の時に非常に象徴的だったのが、「芸術家はそんなに偉いのか」という発言が結構ありました。さらに去年の日本学術会議の問題では「学者がそんなに偉いのか」というのもあって。学者も芸術家も別に偉ぶるつもりはないけれども、それなりに淘汰(とうた)と競争を経てその地位についているので、その分野における能力への信頼や尊敬がなくなったら社会は崩壊しますよね。

―別に人間として偉いからということではなく、専門家として持っている専門知を信用して尊重するということですよね。

そこを「芸術家は、学者は、エリート層はそんなに偉いのか!」となってしまったら何の対話も進まないですよね。要するに、この反知性主義というのは、裏を返せば身体的文化資本の格差が極端に広がってしまったたために、反エリートという一点の強弁でしか、弱者(と本人が感じている方たち)が抵抗できなくなってしまったという風に考えた方がいいんじゃないかと僕は思っています。

今回のコロナでは、特に初期段階で「専門家」という人がテレビに何人も出てきていろんな意見を言うから、誰が専門家かを判断する専門家が必要なくらいの状況で(笑)。東日本大震災の原発についてもそうで、専門家の知性に対する信頼にゆらぎが起こったのは、確かに仕方がないんだけれども。これは僕が大阪大学で扱ってきた科学コミュニケーションの領域で、科学というのは一つの答えが出るとは限らないので、良い意味での両論併記ができる科学コミュニケーターが必要なんですけど、これがまだ育っていない。そのため、「何だ科学も適当じゃん」となってしまうというのが今の日本の状況です。

―科学でそういう状況ですと、芸術ならなおさら大変という感じがしますね(笑)。そういう意味では、税金を投じて文化政策をやっていく上で「誰が専門家を判断する専門家」としての役割を担うことが期待されているのがアーツカウンシルなのかなと考えますが、アーツカウンシルの現状についてはいかが思われますか?

政権交代が起こらない日本では

その点では環境政策とも似ています。大統領が変わったからといって『パリ協定』から離脱したり再加盟したりというのは、本来やっちゃいけないこと。環境政策はまだまだ始まって日が浅いのでそのセーフティーネットがない、ということですね。要するに、環境政策とか、教育政策、文化政策というのは未来についての、100年後、200年後の人類に対しての責任をすごく負っているんです。

―時の権力者の思いつきによって文化が絶えたりすることのないよう、そのためのセーフティーネットとしてアーツカウンシルはあるべきということですね。

ただまあ、そもそも日本においては政権交代がないので、そういう機関があっても、あまり意味を持たないですが。地方自治体においては、疑似政権交代のようなことが起きますので、そのときに地域のアーツカウンシルが本来的な意味を果たせるかがポイントだと思います。が、現状まだまだ組織が弱いので、あまり機能しないとも思います。そもそも予算が少ない。人員も少ないのは、鶏が先か卵が先かになってしまうんですが。やはり、もう一段「アーツカウンシル法」のようなものを国で作る必要があると思います。劇場法ができて公共ホールに対する文化庁の支援については、その自治体が文化振興条例を持っているかどうかなどが審査の条件になってきているんです。日本はどうしても中央集権国家なので、その自治体のアーツカウンシルが機能しているかどうかを評価基準にしていくような法律を作れば、やがて10年20年かけてアーツカウンシルが機能していくかなと思います。まだまだ大変です。

―地方自治体というと、市民からの要望を受ける形で芸術監督を務めたキラリ ふじみがある埼玉県富士見市をはじめとして、平田さんは様々な自治体の文化政策に大きく関わっています。自治体によってそれぞれの背景があるとは思いますが、地方自治体が文化政策に注力する意義について教えてください。

今は、一番は人口減少対策ですよね。やっぱり文化と教育に力を入れていないとIターンどころかUターンも来ないので。これまでの雇用政策では、製造業の工場を誘致して住宅造って、そうすると集団就職と出稼ぎをなくせる、と。これは昭和の時代の、田中角栄型の政策としてはとっても成功した。大したもんです。それも功罪あるんですが、「地方の自律性を損ねた」とか「中央依存度を高めた」とか、でも罪の部分を差し引いても功の方が大きかったと私は思いますよ。昭和の終わりには地方は豊かになったから。その過去を否定するつもりは全くない。

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「昭和の男性目線」から一歩も進んでいない

でもそこで止まってしまっていては困る。いまだに工場誘致、公共事業誘致が首長の仕事になっちゃっている。ところが見誤ったのは、高卒の人たちの進学率が急上昇したこと、特に女子の四年制大学への進学率が90年代に急速に上がったことです。今は50%くらいですが、80年代には10%強でした。四年制大学だと女子は就職が難しかったから。これはでも、ただ4年間だけ故郷を出ていくということではなくて、都会の楽しくて刺激的な生活を4年間過ごした人が戻ってきてくれるかということになったんです。若者は、ふるさとだからといって戻ってくるわけじゃないですよね。 

高卒男子を抱え込んで「どうせ女子は地元に残って結婚して子どもを生んでくれる」という、まさに昭和の男性目線の政策でしょう。要はそこから一歩も進んでいないということです。東京一極集中というのは、経済だけでなく文化も東京が抱え持ってしまっているから、一度それを経験した人には地方がつまらなそうに見えて帰って来ない。だから、食とかスポーツとか広い意味での文化政策をやらないと若い人は戻って来ない。そこに気づいた自治体とそうでない自治体とで、またこれから大きな差がつくということですね。

―非常に説得力のあるお話だと思います。国際基督教大学の同窓会のインタビューでも、助成金申請が銀行の融資に似ているという話をされていて面白く拝読しました。「お金がないから助けてください」ではなく「出資すればこういうメリットがありますよ」というようなロジックですよね。それこそただ「社会包摂です」と言うだけでは説得力がないと思いますが、申請する立場としてはどのような点に気をつけていますか?

まあ、どうですかねえ(笑)。劇作家なので、ある種のストーリーを作るのが専門というのはあるかと思います。あと中高生に向けて授業をする機会が増えて、彼らは平田オリザなんて知らないですから面白くなかったすぐ寝ますからね(笑)。ここ20年くらいでそこは鍛えられました。それは行政などでも同じで、行政官なら行政官、銀行員なら銀行員が受け入れやすい理屈というものを考えるということでしょうね。

―言葉を選ばなければ、相手の立場を考えて喜びそうなことを言うということですね。

方法論としては、そうです。これは最初の話に戻るんですが、僕にとっては優先順位の低いことなんですよね。社会運動家だったら正義があると思うんですが、僕には正義はないので(笑)。小津安二郎さんの言葉に「どうでもよいことは流行に従い、 重大なことは道徳に従い、 芸術のことは自分に従う」というのがあって、僕も芸術のこと以外は別にいいです(笑)。芸術の環境を整えるためなら、道徳の範囲で何でもします。だから「権力におもねっている」とか言って怒られるんですけど、右からも左からも(笑)。

―相手の立場で考えるという点では、先ほどの産業構造の変化は心の痛みを伴うものだから、その痛みのことも考えなくちゃいけないという話にも通じることかと感じました。

まあ難しいんですけどね。産業構造のことについてはそうなんだけど、今最もホットなトピックであるジェンダーギャップの話になると「権力を失う男たちにも優しくしてやれよ」みたいな議論が出てくるじゃないですか。それはどうかなという話になってくる。

―そうですね。足を踏んでいる側の気持ちをくんであげろというのは変な話ですよね。ジェンダーバランスの話が出ましたが、平田さんが芸術監督を務めていた城崎国際アートセンター(KIAC)の芸術監督と館長が交代されるにあたって、ともに後任が女性という点も話題になりました。ジェンダーのことに限らず、青年団のご活動でも、劇団から独立して活躍する演出家、俳優の多さにいつも驚かされます。後進の育成についてはいかがお考えでしょうか?

特徴があるとすれば、青年団は「こまばアゴラ劇場」という場を持っているということです。ヨーロッパにおいては、人材育成は劇場の責務なんです。優れた演出家がいたとしてもそのままでは育ちませんから。特に日本の場合は、俳優志望はたくさんいて演出家は数が限られているから、そういう俳優志望を集めて劇団を作ることまでは誰でもできる。お金さえ集められれば上演もできるんですね。そして演出家が劇作家も主宰も兼ねているから、だいたい一番年上。そうすると演出家は、社会的に鍛えられないですよね。

海外なら早いと20代後半で芸術監督

年上の俳優と制作することは演出家にとってすごく大事な経験で、ヨーロッパの劇場の場合は才能のありそうな演出家が出てくるとそういうマッチングを芸術監督がやるんです。「君はこの部分がまだ足りないから、この俳優とやってみれば?」と。それが劇場の仕事。そうやって才能を育てていく。その間に芸術監督のそばで劇場の運営も学ぶんですね。

そして、早いと20代後半で芸術監督になって、事業予算も数千万から2億円くらいのものを預かるわけです。そうすると自分の作品だけでプログラムを作るなんて勇気のある人間はいないですから、どうやってプログラムのバランスを取っていくかとか考えるわけです。そういうなかで公共性というものも身に付けていくんですね。その場もないんです、日本には。

平田オリザ
青年団公演『ヤルタ会談』(撮影:青木司)

青年団には、そういうマッチングができたり、俳優が演出家を評価するシステムがあります。企画書と予算書も、僕のところでチェックされ、「この予算書じゃできない」とか「助成金を出す側はこういうところを見ている」とか言われるわけです。そういうことを教えてもらえる場が日本には少ないんです。

―演出を志望する人は俳優の支持を得なければいけない、というようなシステムが劇団にあることを、想田和弘さんが青年団を取材したドキュメンタリー『演劇』を見て、なるほどなと思いました。

青年団は、初期段階でそういうシステムができたから、もともと才能のある人がそこに集まってきたというのが現実で、僕が育てたわけではないです。それの象徴が、僕の後任としてKIACの芸術監督になった市原佐都子さん。彼女は僕が桜美林大学を退任した後に入学しているので、僕からは一切教わっていないんです。でも制度設計がしっかりしていると数年はもつんです。そういう場を作ることが大切です。

平田オリザ
城崎国際アートセンター(©︎ Madoka Nishiyama)
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アーティストは絶対に官僚を接待をしない

劇場法ができたにもかかわらず、芸術監督制度が思った以上に根付かないですね。今度、岡山市にも新しく劇場ができますが、そこも芸術監督を置かないことがもう決定しています。地元の若い新聞記者から取材があって「芸術監督は必要ですか?」と聞かれました。劇場が創作活動を行う以上、演目や演出家を誰が決めるのか、その責任者が必要だし、病院の院長は医者がなり、学校の校長は教師がなる。もちろん民間人校長などもありますが、イレギュラーなことをやるにはその説明がいる。劇場法ができて、芸術監督を置かない方が本来イレギュラーなことのはずなのに、数の上ではマジョリティーだからと行政は何の説明もせずにそういうことをやる。

そういう話をしたら、その記者が「岡山市側としては、芸術監督を置くと演出家の独裁になって勝手なことをやってしまうと言った」と言うので、もしその発言が本当であれば非常に問題で、それを糾弾するのがあなたたちジャーナリズムの役目だろうということを言いました。創作活動をやろうと言っている公共ホールがアーティストをまったく信用していない、ということですよね。

―先ほどのヨーロッパの芸術監督制度の話を聞くと、アーティストの独裁になるというのがいかに馬鹿げた話なのかと思います。

今まで芸術監督を置く代わりに、コンサルとか代理店に任せてきたという問題もあります。岡山市も芸術監督は置かないけど専門のプロデューサーは置くと話しています。おそらく行政の感覚としては、アーティストよりはそういう人たちの方が話しやすいということなんだと思います。それは事実でしょう。でもそれは逆に言うと、喩えていえば、「アーティストは絶対に官僚を接待しないから」ということなんですよ。

ホットなトピックに喩えていえば、私たちアーティストは、NTTや東北新社がやるようには公務員を接待しないですよね。コンサルや代理店は接待をする可能性がある、自分たちが使いやすい人たちを選ぶということは、自分たちを接待する可能性がある人を選ぶということですよ。そこを本来チェックするのがジャーナリズムの最大の仕事なので、それができていないのはジャーナリズムにも責任があるかなと思います。

劇場監督の話でもう一つ言うと、新国立劇場ができてもう20年以上になるわけですけど、演劇部門の歴代の芸術監督全員が、それまで芸術監督を経験していない人がなっているんです。大きな劇団の主宰すら経験していない。世界的に見たら異常としか言いようがない。本来なら地方の芸術監督を経験してステップアップしていって、競争と淘汰を経て最後に頂点の国立劇場の芸術監督になるというのが普通ですよね。でもそうなっていない。その理由は簡単です。新国立の芸術監督に僕なんかがなったら官僚が困るから(笑)。歴代監督の演出家としての能力は素晴らしいですよ。でも芸術監督として官僚と渡り合える人がなっているかというとそうはなっていない。

―まさに地方の劇場に芸術監督制度が根付かず、演出家としてではなく芸術監督としてステップアップする場が用意されていないから起こることですよね。成長する場という点では、2021年4月に開学した芸術文化観光専門職大学(兵庫県豊岡市)では学長を務められています。今般のコロナ禍は各方面に多大な影響を及ぼしていますが、「生」の体験に重きをおいてきた舞台芸術や観光は、特に苦しい立場に立たされたかと思います。

私は楽観的な人間なので、逆にこのタイミングで良かったかもしれないとも思います。開学予定が1、2年遅かったら、兵庫県の財政もコロナで当然痛んだので開学自体が延期になっていたかもしれない。一方で1、2年早かったら、学生が就職で大打撃を食ったと思います。観光業なども数年は採用を手控えることになるかもしれませんが、今年開学で就職は4年後なので、ちょうど回復期に差しかかると考えると、不幸中の幸いというか打撃は少ないかなと思います。

観光と舞台芸術の類似性がはからずも世間に知れた

何より、本学について「なんで観光と舞台なの?」と言われてきたんですが、その2つの業種の類似性というのが、図らずも世間に知れたというのもけがの功名ではありますね。そして、観光業とライブエンターテイメント産業という、今回最も打撃を受けている業界の復興を担うというミッションが新たにできたと感じています。

―コロナ禍において嫌われる「移動」や「接触」ということを考える場になれば面白いですよね。舞台作品の配信なども増えたことは良かった反面、やっぱり配信だと物足りないなと感じます。 

そうですね、2020年9月に『豊岡演劇祭』をやって、そういう声はすごく多かったですね。旅行に来て演劇を見て温泉にも入れる。「半年間のストレスが本当に解消されました」という声は本当に多かったです。

―コロナ以降の状況を通じて、『芸術立国論』『新しい広場をつくる』に続く、平田さんによる第3の「芸術立国論」を期待したいところです。

とりあえず、豊岡市で今やっていることは、日本が演劇教育や文化政策が周回遅れだからできていることではありますが、世界的に見ても壮大な社会実践をやらせてもらっているという感覚がありますので、ここの実践で一定の成果を出したいですね。著作というのは、その先ですね(笑)。

平田オリザ(ひらた・おりざ)
平田オリザ

平田オリザ(ひらた・おりざ)

劇作家、演出家、芸術文化観光専門職大学学長。劇団『青年団』主宰。江原河畔劇場、こまばアゴラ劇場芸術総監督。
1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞、2019年『日本文学盛衰史』で第22回鶴屋南北戯曲賞受賞。
豊岡市日高町を拠点に、但馬地域と全国での公演やワークショップ実施のほか、地域のコミュニケーション教育にも取り組んでいる。

ニューノーマル、新しい文化政策

  • アート

近頃、ミュージアムやシアター、ホールのような施設だけでなく街中をはじめ、福祉や教育、ビジネスの現場でも芸術や文化的な活動に出合うことが増えてきた。何気なく触れてきたこれらのアクションの背景はどうなっているのだろうか。

ここ20年ほどの間に、文化や芸術は芸術性の追求などの面だけではなく、社会課題と向き合うことが増えてきた。文化芸術の立ち位置の更新を踏まえ、2017年には基幹ともいえる法律『文化芸術振興基本法』が『文化芸術基本法』に改正され、文化政策も大きな転換点を迎えている。

本特集では、さまざまな社会領域を連携させていこうとする文化政策の大きな流れを知り、その動きを先取りしてきた現場の取組みから学ぶことを目的とする。そしてコロナ禍の現実からどんな未来を想像し、今後の社会づくりやビジネスにどう展開していくのか。アートプロデューサー、森隆一郎(合同会社渚と 代表)のディレクションの下で、「新しい文化政策」を軸に「ニューノーマル」を考えていきたい。第1回はニッセイ基礎研究所研究理事の吉本光宏が語ってくれた。

  • アート

社会の在り方を大きく変容させた新型コロナウイルス感染症。連載シリーズ『ニューノーマル、新しい文化政策』では、アートプロデューサー、森隆一郎(合同会社渚と代表)のディレクションのもと、コロナ禍が文化政策に及ぼす影響を探っている。第2回は、企業が行う文化活動に長年携わってきた若林朋子に、企業メセナを中心とした民間による文化支援について聞いた。

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  • アート

社会の在り方を大きく変容させた新型コロナウイルス感染症。連載シリーズ『ニューノーマル、新しい文化政策』では、アートプロデューサー、森隆一郎(合同会社渚と代表)のディレクションのもと、コロナ禍が文化政策に及ぼす影響やパンデミック後の在り方を探っている。

第3回は、大阪のNPO法人、こえとことばとこころの部屋ココルーム代表の上田假奈代(うえだ・かなよ)。日雇い労働者の街、釜ヶ崎で「表現」を軸にカフェやゲストハウスなどを営むココルームの経験をもとに、理想的な文化支援について聞く。

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