【連載第3回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

表現の自由はどこまで自由か――「シャルリー・エブド襲撃事件」とフェイクニュース

作成者: Time Out Tokyo Editors |
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表現の自由はどこまで自由か

著者:太下義之 

1. 表現の自由はどこまで自由か

前節にて「表現の自由」が重要であることは確認できたとして、次にはたして全ての表現は何の制約も受けない、完璧な自由なのであろうか、という点について考察したい。

当然のことながら、表現されるものの中には、現代を生きる私たちのモラルから大きく逸脱する内容の表現も存在する。「表現の自由」は、無制限の権利なのではなく、ある種の臨界点がある。以下において、「わいせつ規制」と「シャルリー・エブド襲撃事件」、そして「フェイクニュース」を題材として順次考察したい。

1. わいせつを隠す「ズボン作り」

世界各国における音楽を中心とした表現に対する検閲実態を調査するデンマークの団体「フリーミューズ(Freemuse)」は、芸術の自由に対する侵害に関する年次報告書“The State of Artistic Freedom”を作成・発行している。その2019年版「誰の主張が重要なのか?」(※12)では、2018年一年を通じて80カ国のさまざまな文化圏で発生した芸術の自由に対する侵害の673件の詳細な分析を行っている。うち、60カ国の286件が「検閲」の事例であるが、そのうちの82%は「わいせつ」が理由の検閲となっている(Freemuse 2019:13)。すなわち、現代における検閲のほとんどは「わいせつ」に対する表現規制なのである。

(※12)Freemuse(2019)“The State of Artistic Freedom 2019

「わいせつ」な表現に対する規制の最も古い事例の一つが、盛期ルネサンスの三大巨匠の一人、ミケランジェロの「最後の審判(Giudizio Universale)」であろう。この「最後の審判」はバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画で、ミケランジェロの代表作とされる。しかし、「宗教芸術においてその時に要求されていたメッセージと礼節についての明確さに欠けていた」と判断され、ミケランジェロが死去した1年後の1565年に、画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラによって、裸の人物に衣服を着せ、いくつかのあまりにもみだらであるとみなされたものについては場所を変更させられた(※13)。ちなみに、「最後の審判」に描かれた性器を腰巻きなどで覆い隠すために雇われたヴォルテッラは「ズボン作り(Il Braghettone)」という不名誉なあだ名をつけられた、とのことである。

(※13)Peggy Blood & Pamela J. Sachant(2018)「芸術への入門 — 第11章 芸術と倫理

一方で、近年においても同じローマで「ズボン作り」の興味深い事例が発生している。2016年1月に、イランのロハニ大統領がイタリアのレンツィ伊首相と会談した際、会場となったローマのカピトリーノ美術館では、イスラム文化に対する配慮から、ビーナス像などの裸像が全て白いパネルで覆われた。これに対してインターネット上のソーシャルサイトには反発する書き込みが相次いだとのことである(※14)

(※14) CNN(2016年1月2日)

さて、「最後の審判」からカピトリーノ美術館のビーナス像へと至る長い歴史の中で、わいせつを理由として検閲されたアート作品は枚挙にいとまがない。しかし、これらの性的表現の過激さを理由に美術館から排除された過去の作品を、今日私たちが見た場合、いったいどのように感じるであろうか。おそらく大半の表現に関して、「何でこの程度の表現で当時の人たちは大騒ぎをしたのだろうか」という疑問を抱くのではないか。

さらに言えば、仮に現時点で多くの人がある種の表現に対して賛成(寛容)であるか、または反対(不寛容)であるとしても、後世においてその基準(らしきもの)は変化していくこととなる。このように性的表現を巡る規制の歴史をたどるってみると、いわゆる「わいせつ」な表現に対する規制には絶対的な基準は存在しないということが理解できる。

なお、今回の「不自由展」においては、わいせつな表現に関する検閲の展示が全くなかったことは、特筆すべきことであると筆者は考えている。

 

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参考文献
アート

【連載第2回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

今回、あいちトリエンナーレで懸案となった「表現の自由」について、ここであらためて考察してみたい。当然のことではあるが、アーティストが安全に創作・発表できる社会は、多くの市民にとっても民主的な生活をすごすことのできる社会の基盤となるであろう。その意味でも「表現の自由」は極めて重要な概念である。

「表現の自由」の思想的背景として、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859)があげられる。

「表現の不自由展・その後」の展示作品「平和の少女像」撮影:太下義之
「表現の不自由展・その後」の展示作品「平和の少女像」撮影:太下義之
アート

【連載第4回前編】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

-1. 「関係性のアート」としての「不自由展」

今回の「不自由展」が設定した「表現の自由」という企画は、過去に禁止となった作品を手掛かりに「表現の自由」や世の中の息苦しさについて考えるという内容であり、アートを通じたジャーナリスティックな問題提起を目指すという意欲的取組の企画コンセプトであったと高く評価できる。

ただし、企画コンセプトがいかに素晴らしいものであっても、全ての鑑賞者がその表現を理解し、受容するわけではない。本来は、展示を通じて鑑賞者に対して企画の趣旨を効果的かつ適切に伝えることが必要であり、そのための「キュレーション」と「コミュニケーション」が必要であった。料理に例えて言えば、フグのようにおいしい食材でありながらも毒を含んでいる食材を調理する場合、きちんとした料理人による調理が必要となることになぞらえることができる。

しかし、実は「不自由展」に関しては、4月に開催されたキュレーター会議で、トリエンナーレのキュレーターチームは「不自由展」の作品選定には関与しないことが決定されていた。

検証:あいちトリエンナーレ

2019年に開催を終えたあいちトリエンナーレの『不自由展』を巡る一連の騒動について考える。文化政策研究者であり、あいちトリエンナーレのあり方検討委員会のメンバーの太下義之による考察を、全6回に分けて連載。

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