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あいちトリエンナーレ2019展示風景/撮影:Time Out Tokyo

【連載第2回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

グローバリゼーションの中の「表現の自由」と「検閲」――各国の憲法と自主規制

作成者: Time Out Tokyo Editors
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グローバリゼーションの中の「表現の自由」と「検閲」

著者:太下義之 

1. グローバリゼーションの中の「表現の自由」と「検閲」

1. ミルの「自由論」

今回、あいちトリエンナーレで懸案となった「表現の自由」について、ここであらためて考察してみたい。当然のことではあるが、アーティストが安全に創作・発表できる社会は、多くの市民にとっても民主的な生活をすごすことのできる社会の基盤となるであろう。その意味でも「表現の自由」は極めて重要な概念である。

「表現の自由」の思想的背景として、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859)があげられる。

同書の中でミルは「自由」を次のように定義した。「自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である」(ミル1859=2012:36)。さらにミルは、「多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押し付けるような社会の傾向にたいして防御が必要である」(ミル1859=2012:20)と述べた。

ただし、ミルは同書の中で芸術に関する「表現の自由」そのものについては言及していない。その一方で、「思想と言論の自由」に関してはわざわざ一つの章を割いて論じている。そこでミルは、「どんな学説であろうと、それが不道徳とみなされる学説であろうとも、それを倫理的な信念の問題として公表・議論できる完全な自由が存在しなければならない」(ミル1859=2012:43)としている。また、「討論の場がつねに開かれていれば、よりすぐれた真理がそこに存在するとき、そして、われわれの知性にそれを受け入れる余裕があるとき、それはきっと発見されるだろう」(ミル1859=2012:56)とも語っている。

これらの言説から理解できる通り、ミルは、真理の発見のために「思想と言論の自由」が不可欠と考えたのである。そして、真理を発見していくことで、人間の社会が進化すると考えたのである。これは、「自由」を人間の進化の道具としてとらえる、ある種の道具主義とみることもできる。

ところで、ミルはさらに重要な指摘をしている。「たとえ国民の幸福が目的だからといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を委縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう」(ミル1859=2012:275)。そして「そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わせてしまうのである」(ミル1859=2012:276)と、ミルは“予言”しているのである。

2. 国連と「表現の自由」

国連においても、「表現の自由」と「検閲」は重要な課題となっている。国連人権理事会の文化権分野特別報告者の2013年の年次テーマ報告は、「芸術的表現と創造性の自由に関する権利」(※4)とタイトルされた。この報告書は、前年の2012年に文化的権利の分野で国連特別報告者に任命されたパキスタン出身の社会学者Farida Shaheedによって執筆された。

(※4)Farida Shaheed(2013)“Report of the Special Rapporteur in the field of cultural rights"

Shaheedは同報告書において、「芸術の検閲、または芸術表現や創造性の自由な権利へ不当な規制は破壊的な結果をもたらす。それらは、重要な文化的、社会的、経済的損失をもたらし、アーティストから表現の手段と生計の手段を奪い、アートおよびその観衆に対して危険な環境を生み出し、人間的、社会的、政治的な問題に関する議論を抹殺し、民主主義の機能を妨げ、そして、しばしば検閲の合法性についての議論も妨げる」(Shaheed2013:18-19)と、検閲のもたらす害悪について言及している。

さらに、「多くの場合に検閲は、物議をかもす芸術作品により広範な世間の注目を与えるという点で逆効果である。しかし、検閲に対する恐怖は、アーティストや芸術団体において、しばしば自己検閲を引き起こし、芸術表現を窒息させ、公共の範囲を衰退させる。それゆえに、芸術的な創造性は、恐怖や不安がない環境を必要とする」(Shaheed2013:18-19)と、Shaheedは述べている。

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参考文献

【連載第1回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

アート

「情の時代 Taming Y/Our Passion」をテーマとする国際芸術祭、あいちトリエンナーレが2019年8月1日から10月14日までの期間で愛知県にて開催された。このトリエンナーレの展覧会内展示「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は8月1日から3日間開催したのち、いったん休止し、その後10月8日からトリエンナーレの閉幕日である14日まで展示を再開した。このように、いったん中止された展覧会が再開された事例は、世界にもほかに例がないのではないか。

筆者は、「アームズ・レングスの原則」、すなわち、アーティストや文化団体などと政府との間に「一定の距離が置かれ独立性が与えられている」という状態を維持するための文化政策を専門とする研究者であり、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」(以下、「検証委員会」)(※1)の委員でもあった。委員として経験したことも踏まえ、本稿においては、「不自由展」を巡る一連の事件から、私たちがこの事例から何を学ぶことができるのかを考察してみたい。

【連載第3回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

アート

前節にて「表現の自由」が重要であることは確認できたとして、次にはたして全ての表現は何の制約も受けない、完璧な自由なのであろうか、という点について考察したい。

当然のことながら、表現されるものの中には、現代を生きる私たちのモラルから大きく逸脱する内容の表現も存在する。「表現の自由」は、無制限の権利なのではなく、ある種の臨界点がある。以下において、「わいせつ規制」と「シャルリー・エブド襲撃事件」、そして「フェイクニュース」を題材として順次考察したい。

検証:あいちトリエンナーレ

2019年に開催を終えたあいちトリエンナーレの『不自由展』を巡る一連の騒動について考える。文化政策研究者であり、あいちトリエンナーレのあり方検討委員会のメンバーの太下義之による考察を、全6回に分けて連載。

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