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検証:あいちトリエンナーレ
あいちトリエンナーレ2019展示風景/撮影:Time Out Tokyo

【連載第1回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

「ソーシャル・メディア型のソフト・テロ」と展示中止にまつわる誤解

作成者: Time Out Tokyo Editors
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 2. 電凸:ソーシャル・メディア型のソフト・テロ

1. 電凸の三つのカテゴリー

「電凸」(「電突」と表記することもある)とは、特定の相手先に対して、電話をかけるなどして、組織としての見解を問いただしたり、苦情や抗議を申し立てたりする行為のことである。

あいちトリエンナーレ(特に「不自由展」)に対しては、2019年8月1日から8月31日までの一か月間に、電話3936件、ファクス393件、メール6050件、合計1万379件もの「電凸」があった。

「たかが電話」程度のことと思う人がいるかもしれないが、電凸の中には、長時間に及ぶもの、しつこく反復されたもの、組織的なものもあったほか、「死ね」「ぶち殺すぞ」などの暴力的・脅迫的なものも多かった。こうした常識の範囲を超える電話を受けた職員は一対一の状況で対応しており、氏名を名乗らされて逃げ場はなく、業務妨害だけでなく、精神的苦痛も多大に被った。

特に「不自由展」の当初の開催期間中については、トリエンナーレ事務局、県庁の代表からさまざまな部局、さらには学校などを含む出先機関へ組織的かつ大量の電凸攻撃があった。そして、事務局の担当者はひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われ、事務局の機能は完全にまひさせられた。

このように電凸自体も想定を超えた大変な被害だったわけであるが、それに加えてさらに脅迫が発生した。脅迫の主な内容については、ガソリン・テロを予告するFAXなど、京都アニメーションの事件を想起させるような、かなり深刻な内容の脅迫があった(その後、本件で1人が逮捕された)。 

そして、このままでは、展覧会会場の安全が保てないという状況となり、このことが「不自由展」の展示中止の直接的な原因となった。

さらに、「不自由展」の中止決定後も電凸および脅迫は続き、中には、サリンとガソリンを撒き散らす、高性能な爆弾を仕掛ける、愛知県職員らを射殺する、などもあった。そして、脅迫の対象は、愛知県庁だけではなく、愛知県内の小中学校、高等学校、保育園や幼稚園にまで及んだ。

そのうえ、電凸と脅迫に並行して、政治家による抗議の発言が相次いだ。これらの発言がさらに電凸をあおった側面もある。なお、事務局が把握したのは6人の政治家の発言であるが、うち何人かは後に発言を取り消している。

さて、この電凸を実行した人々については、少なくとも三つの特徴的なカテゴリーに分類することができる。一つは組織的な電凸である。いくつかの集団があらかじめ用意されたマニュアルを元にして、電話によって抗議を超えた脅迫などを繰り返した。また、電凸に対する愛知県や事務局の対応状況(のほころび)が集団内で情報共有されていた。二つ目のカテゴリーは天皇陛下を敬愛する、主に高齢層であり、例えば「天皇陛下の肖像を燃やすようなことはどうか止めてください」と泣きながら訴えてきた市民たちである。このカテゴリーはあくまでも個人として電話をかけており、組織的な運動ではない。さらに三つ目のカテゴリーは、NHKの「クローズアップ現代」(2019年9月5日)でも放映されていたように、主に日常からソーシャル・メディアを活用する若者たちであり、自分では民意を表明しているつもりの層である。彼らは電凸にあたりきつい言葉を使ってはいるが、おそらく個人の心情としては正しいと思っていることを県の職員に伝えているのであろう。 

今回の特徴であったのは、この三つ目のカテゴリーである。会場で撮影された断片的な映像、作者や作品に関する不正確な情報、そして電凸のマニュアルなどが実際には展示を見ていない人々にもSNSなどで共有・拡散されていき、そして抗議や声明が一種の祭りや娯楽のような状態に昇華・転換していった。電凸の電話を掛けている側から見ると一つ一つは単なる抗議かもしれないが、電話を受けている事務局からすると、切れ目なく連続した攻撃となる。これはもはや一種のテロととらえるべきであり、検証委員会では「ソーシャル・メディア型のソフト・テロ」と名付けた。

InstagramやTwitterなどのソーシャル・メディアは、短く強い言葉で感情を訴えるのにより適しているが、深い文脈や思想は省略され、抜け落ちていくことになる。そして、「不自由展」の作品に関する写真や断片的な情報を触媒として、多くの人の感情が動員されていった。皮肉なことではあるが、「情の時代」という芸術監督・津田大介氏による開催テーマは、これらの電凸によって現実に具現化したとも言える。

このようにして「不自由展」は不自由展実行委員会との協議を経て開催3日を経て中止された。なお、上述した内容からも理解できる通り、これは脅迫や電凸などの差し迫った危険のもとの判断でありやむを得ないものであって、憲法第21条に定められている「表現の自由」の不当な制限には当たらない、と検証委員会では結論付けた。

筆者と同じく「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の委員であった憲法学者の曽我部真裕氏は、あいちトリエンナーレの一件に関して、この法的問題を図解したうえで、「憲法21条の表現の自由が典型的・直接的な問題となる場面はない」(曽我部2019:68)としている。

2. 電凸が顕わにした日本社会の分断

ところで、いわゆる従来型の検閲というものは、強い政府などに代表される、権力を前提として、そういった権力が検閲の主体となり、事前あるいは事後にあからさまな検閲などを行うことを指していた。これに対して、今回起こったことは権力者による検閲ではなく、一般市民も含むカッコつきの「市民」たちによる、匿名性が高い電話やSNSを通じての攻撃であり、新しいかたちの検閲であったと見ることもできる。すなわち、「不自由展」は、本来は「表現の自由」のあり方を問うべき展示によって、現代的な新しいかたちの検閲を誘発してしまったということである。

この電凸という事象が起こった背景には、社会的、経済的、思想的な要因があると思われるが、深いところでは今日の社会における分断や断絶があり、それがこういう事象を呼び起こしているのであろう。さらにその背景には、実はここ10 年ほどの人々の情報知識との向き合い方が変化したためでもあるのではないかと筆者は推測している。どういうことかというと、我々が今情報を得ようとすると、多くはインターネットのポータルサイトを通じて、となるわけである。ただし、このポータルサイトはアルゴリズムで統制されていて、それぞれのユーザーにより最適な検索結果を返そうとする。仮に私がある政治的思想的な偏向を有していたとすると、私が検索する結果は徐々にその偏りがある内容になっていくはずである。そうすると、検索する側から見ると、あたかも世界中が自分の考えに近い情報で満ちているような気持ちになる。これは、フィルターバブル(filter bubble)と呼ばれる現象である。一つの閉じた情報体系の中でどんどん偏った知識だけが増えていくということになるわけである。おそらくこういった閉鎖的な「フィルターバブル」の形成が、今回の電凸のような社会現象が起こった背景にあるのではないか。

米国の憲法学者キャス・サンスティーンは、社会の中にさまざまに存在する「熟議」を行う集団が、「自分たちと異なる見解をほとんど見聞きせずに、定期的に集まるような場合」(サンスティーン2000=2012:10)に、「筋の通らない極端主義、実質上熱狂ともいうべき状況を生み出す基盤となる」(サンスティーン2000=2012:12)と既に2000年の時点で指摘している。そして、SNSにおける集団での「熟議」は、リアルな対面での「熟議」よりも加速度的な集団極化を進展させるものと考えられる。

そして、こうした日本の社会的な分断が露わになったということも、今回のあいちトリエンナーレの一つの収穫であると言えよう。今後の地域の芸術祭や文化政策においても、こうした社会的分断を前提として考えなくてはいけない。しかし一方で、こうした社会的分断に向き合うことは、どこまでがアートの役割なのであろうかという疑問も生じる。

さて、「不自由展」中止後の9月21日に、市民たちとアーティストたちが対話するというフォーラムが愛知芸術文化センターにて開催された。会場での発言内容からすると思想的には左右両サイドの考えの市民がいたと思われる。一般論として言うと、そういう人々が、いわゆる熟議を重ねて合意形成を目指すことが民主主義の基本だ、となるのであろう。しかし、当日のフォーラムの感触からすると、おそらく話し合ったとしても平行線で結論はでないと感じられた。関係者が自らの正しさを主張するだけでは双方の折り合いがつかないし、むしろのめりこんで議論をすればするほど、社会の分断はますます拡大していく。そんなとても息苦しい社会に現代は突入していることが実感できたフォーラムであった。

 -3. 電凸の歴史と未来

ちなみに、アートの領域における電凸の元祖は、今から半世紀以上も前の事件にある。1963年、イギリスの活動家グループ「平和のためのスパイ」が厳重警備の軍事施設に押し入り、イギリスの政治家や役人のための非常用シェルター計画の政府資料をコピーした。そして彼らは、「侵入時に手に入れた番号にのべつまくなしに電話をかけ、英国機密局の四〇本の回線をパンクさせた」(ビショップ2012=2016:140)とのことである。ここで興味深い点は、電凸というソフト・テロの手法が既に半世紀以上も前に実践されていたこと、また、それを実践したのが、思想的にはいわゆる左派だった点である。すなわち、今回の電凸は左派に由来する政治的なツールを右派が引き継いだかたちとなったわけである。

上述した、電凸の元祖である「平和のためのスパイ」は、ある意味で「検閲」され、世の中から隠された情報を白日の下に晒すことを目的として電凸を実施し、その目的を達成した。これに対して、あいちトリエンナーレの電凸の場合は、特定の芸術作品(の展示)を封印しようとして、いったんは成功しかかったものの、結果として展示は再開となり、また、検閲や表現の自由に関する世論が盛り上がったことによって、かえって逆効果をもたらしたと評価することができる。

今回は、政治的と思われたアートを巡って電凸が発生し、あいちトリエンナーレに対するダメージが多大であったわけであるが、この電凸はそのほかのさまざまなイベントに波及する懸念がある。今回の事件によって、自分の考えや思想に合わない行事やイベント、展示に対して脅迫をすれば、それを中止させることができるのではないかという勘違いを生じさせてしまった懸念がある。そして、この電凸という事象は、別に政治的なイシューを背景としなくても起こりうる。例えば、これからの日本ではオリンピックや万博のイベント会場が電凸のソフトターゲットになりうる。2020東京オリンピックや2025 年大阪万博を何らかの理由で気に入らないと感じ、これを潰そうと思う人たちがいたとしたら、電凸というツールと脅迫を組み合わせることによって、容易にそれを達成しうる可能性がある。もちろん、こういうソフト・テロを断じて許してはいけないので、国としても、脅迫に対する厳罰化などの対策を考えていかないといけない事案であろう。

また、ある特定の機関に問い合わせが集中する現象として電凸をとらえた場合、本件のような抗議活動以外での同様の事態の発現も想定される。例えば、東南海地震のような大規模災害の発生時には、関連する自治体に電話が殺到する事態が懸念される。こうしたケースへの対処として、AIによる自動応答の導入や、同時に多数の通信を処理するシステムの構築などについても早急に検討が必要であろう。

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参考文献

【連載第2回】検証:あいちトリエンナーレ——私たちはそこから何を学ぶことができるのか?

アート

今回、あいちトリエンナーレで懸案となった「表現の自由」について、ここであらためて考察してみたい。当然のことではあるが、アーティストが安全に創作・発表できる社会は、多くの市民にとっても民主的な生活をすごすことのできる社会の基盤となるであろう。その意味でも「表現の自由」は極めて重要な概念である。 「表現の自由」の思想的背景として、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859)があげられる。 同書の中でミルは「自由」を次のように定義した。「自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である」(ミル1859=2012:36)。さらにミルは、「多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押し付けるような社会の傾向にたいして防御が必要である」(ミル1859=2012:20)と述べた。 ただし、ミルは同書の中で芸術に関する「表現の自由」そのものについては言及していない。その一方で、「思想と言論の自由」に関してはわざわざ一つの章を割いて論じている。そこでミルは、「どんな学説であろうと、それが不道徳とみなされる学説であろうとも、それを倫理的な信念の問題として公表・議論できる完全な自由が存在しなければならない」(ミル1859=2012:43)としている。また、「討論の場がつねに開かれていれば、よりすぐれた真理がそこに存在するとき、そして、われわれの知性にそれを受け入れる余裕があるとき、それはきっと発見されるだろう」(ミル1859=2012:56)とも語っている。 これらの言説から理解できる通り、ミルは、真理の発見のために「思想と言論の自由」が不可欠と考えたのである。そして、真理を発見していくことで、人間の社会が進化すると考えたのである。これは、「自由」を人間の進化の道具としてとらえる、ある種の道具主義とみることもできる。 ところで、ミルはさらに重要な指摘をしている。「たとえ国民の幸福が目的だからといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を委縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう」(ミル1859=2012:275)。そして「そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わせてしまうのである」(ミル1859=2012:276)と、ミルは“予言”しているのである。 ―2. 国連と「表現の自由」 国連においても、「表現の自由」と「検閲」は重要な課題となっている。国連人権理事会の文化権分野特別報告者の2013年の年次テーマ報告は、「芸術的表現と創造性の自由に関する権利」(※4)とタイトルされた。この報告書は、前年の2012年に文化的権利の分野で国連特別報告者に任命されたパキスタン出身の社会学者Farida Shaheedによって執筆された。 (※4)Farida Shaheed(2013)“Report of the Special Rapporteur in the field of cultural rights" Shaheedは同報告書において、「芸術の検閲、または芸術表現や創造性の自由な権利へ不当な規制は破壊的な結果をもたらす。それらは、重要

検証:あいちトリエンナーレ

2019年に開催を終えたあいちトリエンナーレの『不自由展』を巡る一連の騒動について考える。文化政策研究者であり、あいちトリエンナーレのあり方検討委員会のメンバーの太下義之による考察を、全6回に分けて連載。

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