ニュース

「盗めるアート展」を振り返って

本誌記者が参加、この展示は一体何だったのか

テキスト:
Sato Ryuichiro
広告

多くのメディアで取り上げられて話題となった『盗めるアート展』は、2020年7月10日24時に開催を控え、会場のセイムギャラリー(same gallery)入り口に規制線が張られ、周囲には多くの人々が詰め掛けていた。しかし、予想以上の人が殺到して予定より30分ほど早く規制線が解かれ、その瞬間にギャラリー内に人が殺到、一瞬とも言える速さで全作品が盗まれてしまったことは、すでに報じられているところだ。

盗めるアート展
ギャラリー前に集まりだす人々

公式サイトによれば、この展示のコンセプトは、「盗んでよいものとして作品が展示されるとき、アーティストはどのような作品を展示するのか? 鑑賞者と作品の関係性はどうなるのか? 芸術作品に常にまとわりつく、ギャラリーや美術館という守られた展示空間との既存の関係性が壊された空間で、現代における芸術作品のありようを違った角度から捉え直す機会となったら幸いです」というものであった。果たして、これは成功したのだろうか。

「アート」を盗もうとしていたのか

現在「盗めるアート」展で盗んだと思しき作品はメルカリに出品されており、このような状況さえも展示の一部と考える向きもある。また、この展示を考察するブログも数多くネットに確認できる。その意味で話題性は十分であった。しかし、話題性ではなく、そこにはどのような意味があったのだろうか。

記者自身、開催前に規制線の張られた入り口に張り付きながら待っていたが、開場した途端、後ろの人に押し負けて作品を取り損ねた。壁にかかっていたペインティングが傾けられて外されるのを見て足元から崩れ落ちそうになるほどショックを受け、作品を獲得した男性が「取った、取った」と言いながら走って逃げるのを見て、盗まれたことへの悔しさとは別の何かにひどく落胆もした。

おそらく現場にいた人々の多くがこのような感想を抱いたのではないかと推測する。記者はその後、これらの光景がいつまでも頭から離れなかった。作品の価値が分からない人々に作品がわたるのは不幸だと最初は考えていたのだろう。

盗めるアート展
作品を運び出す人々

しかし、この展示はそのような感想を抱くために開催されたのではないはずだ。冷静に振り返ると、歴史上著名なコレクターでさえ作品の真価を知っていたわけでも関心を持っていたわけでもない。

例えば、アメリカの著名な収集家J. P.モルガンは自身が購入したミケランジェロの作品の所在を秘書に聞いたら、モルガンの目の前にあったという話も伝わっているし、ナポレオンはそれほど教養豊かではなかったがそれでもイタリアに侵攻した際に中世の写本を大量にフランスに持ち帰っている。そのコレクションが転売されることもあったし、その転売が利益を求めてのこともあった。その意味では、メルカリのような転売は長いアートをめぐる歴史の中で特別なことではない。現在アートを売買する際は、アートが好き、関心があるという前提があるからメルカリ転売が承服しかねるように感じるだけとも言えよう。

「盗む」こと自体が目的に

問題はここからだ。現場で取材した泥棒の格好をした男性は、展示作品がどのようなものかは知らず、「とにかく盗めたらという気持ちで来ました」と語った。記者自身も目当ての作品があったが、あまりの人の多さに心配になって目当ての作品とは別に持ち運びやすそうな作品を探していたのを覚えている。私たちは、「アート」を本当に盗もうと思っていたのだろうか。少なくとも初めから転売目的であった人々には、それがアートであるかどうかは問題ではなかったであろう。

「アートであるから盗む、アートが欲しいから盗む」よりも「盗みを成功させる」こと自体に参加者の多くが注意を向けていたのではないかと思われる。フォーブスの記事も実際に同じような危惧を投げかけていたが、ギャラリーオーナーの長谷川踏太(はせがわ・とうた)は 「アートでは転売目的は起こりにくいのでは」と回答している。実際にはそれは誤りだったことになる。

とはいえ、この展示の目的が「アート」とは何か、それを所有することとは何か、といった線引きを曖昧にして再考を促すという点にあるならば、それは半ば成功し、半ば失敗したということになろう。アートについての再考を促すよりは、それをいかに所有するかという点がクローズアップされてしまったのだから。

「盗む」とは「購入しないこと」か

予想外の人の多さで一瞬で終了となった本展だが、人々が殺到することで開催者側が予想していなかった形で終わったのは間違いない。パフォーマンスに参加して、エスカレートした観客という図式を想起する向きもあるだろう。そのような側面も見られなくはないが、そもそも今回は観客だったのだろうか。展覧会側が呼ぶ「アート泥棒」という呼び名に即して考えるなら、確かに泥棒としては成立しているのだ。ただし、それは泥棒ではあるが、むしろ略奪という方がふさわしい。

ギャラリー側はひっそりと盗む泥棒を想定したようだが、「購入しなくても」手に入るということでSNSなどで多くの人々の耳目を集め、結果として盗むにはふさわしくない多くの人々が集まってしまった。購入しなくても手に入る状況が与えられたからといって、いわゆる人目を忍んで盗む状況になるとは限らなかったのだ。

会場には「欲しい作品が被った場合はじゃんけんで決めること」という張り紙もされていたが、それが忠実に守られたとは言いがたい状況であった。

盗めるアート展
じゃんけんを促す張り紙

入り口で多くの人々が待機し、談笑している光景は、盗むという犯罪の雰囲気よりもレアなアイテムが無償で配布されるのを待っているという雰囲気だった。主催者側の演出や設定、周辺の環境への配慮が不十分であるとしても、今回のような数奇な事態を招いたのはギャラリー側だけではなく、盗むという行動について深く考えなかった私たちの側にあるように思われる。

ギャラリーから最初に走って逃げていった男性が「取った、取った」と叫んでいたのは、そうした意識を端的に表しているだろう。泥棒は「盗んだ」ことを声高に言いふらして逃げていかないのだから。

結局、私たちは何を見ていたのか

公式サイトには、「本展は本来このような混乱を招来することを意図して企画したものではなく、恥ずかしながら当日の顛末は予想できておりませんでした」というコメントが挙げられている。

このコメントによって運営側がさまざまな意図に反した結果を認めたとしても、この展示が極めてコンセプチュアルな内容であった以上、私たちが何を論じ、どう行動しても、そのコンセプトの延長線上にあるとして自らの言い分を絡め取られてしまうのかもしれない。

それにもかかわらず、作品を盗めてうれしそうにする人がいたのも事実なのだ。展示のコンセプトやその成否については結果を見ればネガティブな言い方になってしまうが、今回盗んだことで作品に親しもうという機会も確かに生まれている。伊藤ガビンの作品を手に入れた人物は、「この作品を家に飾る」とうれしそうに話してくれた。

盗めるアート展 
伊藤ガビンの作品を盗んでうれしそうな男性

この展示をきっかけに、メルカリでの転売を含めてアートなのではないかと考える言説が生まれているのも興味深い。アートとは何か、を考えるには至らないまでも、確かに「守られた展示空間との既存の関係性が壊された空間」の中でそれをアートとして茶化す姿勢は、それ自体がアートを楽しむ人々の姿勢に近しいのだから。

私たちは展示を見るというよりもその周囲にある盗もうとする人や盗むという行為などに気を取られがちで、結局展示自体を見ていなかったというナイーブな言い方をすることもできよう。しかし、こうした状況にも確かに意味があったのだ。

関連記事

追悼再録、エンニオ・モリコーネインタビュー

パルコミュージアムトーキョーで新作含むグループ展が開催

2020年10月、オノ・ヨーコとジョン・レノンの展覧会が六本木で開催

初の外国人ディレクターで横浜トリエンナーレが7月17日開幕

モネのアトリエや寝室をのぞく? バーチャルで訪れるピンクの邸宅

最新ニュース

    広告