東京を創訳する 第19回『空と冷気』

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

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テキスト:船曳建夫

東京の秋、9、10月は、空の高さと冷気が魅力である。空気が澄んでいて、雲が高いところにある。さわやかな風が吹く。遠くの音が聞こえてくる。道を歩く子どもの話し声、思いがけず東京湾の汽笛が聞こえ、まだ葉が落ちない木々が風にさざめく。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

秋は良い。盛夏を過ごしたあと、額の汗が乾いていくように、生き返った心地がする。この古今集の歌はそんな心持ちを詠んだのだろう。

ただ、9月に入ったらすぐこうなるわけではない。この歌のポイントも、目の前は暑い夏の光景なのに、その中に秋を感じ取るところにある。これに限らず、日本列島の季節感はすべて先取りである。東京では桜は3月の末に咲くのだが、3月を過ぎればもう花見の話をする。同様に、9月になれば、気分だけは「今はもう秋、誰もいない海」とカレンダーをめくってしまうのだが、残暑というものが半月も居座る。梅雨明けと同時に始まる夏とは違って、秋はゆっくりとしか進まない。しかし「まだ暑いよ、一体今年は何なんだ」とぼやいていると、ある朝、気が付けば周りは夏の喧噪とは異なり、しんと静かな秋となっているのだ。

私は外国で、「東京にはどの季節に行ったらいい?」と聞かれると、10月と答えることにしている。特に10月に何かがあるわけではない。もちろん秋の葉の色づきはある。黄葉だったら神宮外苑のイチョウ並木、紅葉だったら六義園が挙がるだろう。でも日本各地の紅葉の名所と比べると、とうてい横綱は張れない。しかし、「東京の中にすべてはないが、東京に来ればすべてが手に入る」がこの都市のキャッチフレーズだ。観光でもショッピングでも食べ歩きでも、東京に来たらすべてが手に入る。紅葉が見たいのだったら、東京から足を延ばせば、日本で紅葉のベストである京都にも日光にも日帰りで行くことができる。負け惜しみではなく、これも「東京」という街が持つキャパシティなのだ。それでも個人的に好きな東京の黄葉は、皇居の御壕端(おほりばた)、桜田門から日比谷にかけての街路樹である。車で通り過ぎると一瞬だが、青い空との対比が素晴らしい。この街路樹の風景に限らず、広大な皇居があることは、東京という巨大都市に空を開くことになっている。ことに日比谷からの視界には、小高いところにある国会議事堂の上を含めて、広い空が広がっている。秋はその空があくまでも澄んで高いのだ。

この連載は読者として外国人旅行者を念頭に置いているが、書き手である私はこの街の居住者なので、パリの人間がエッフェル塔に上らないように、東京の観光スポットにあまり興味はない。自ずとここに書くことも、東京に暮らしていることで感じられる街の魅力や面白さとなる。それでいいのではないだろうか、と思う。私もフィレンツェに行ったら、美術館の名画だけでなく、住む人が感じる街の表情を知りたいと思うからだ。だから、外国からの友人にライトアップされた紅葉のスポットを勧めたりはしない。「綺麗は綺麗だけれど、混んでて大変だよ。紅葉でなく、人間観察だったら良いけれど」と言うだろう。東京に秋に来ることを勧めるのは、気候の良さからだ。8月は日照りに苦しむし、12月にはすでに防寒着が必要で、旅の荷物が増える。9月の後半から10月は、晴れの多いすがすがしい空の下、街を歩いていて、体も心も軽い。「読書の秋」とよく言われるのだが、何となく人々も、浮かれはしゃぐ気分より静かに幸福な気持ちで生きている。もちろん、美術館や劇場など、文化的な催しも厚みを増し、それも東京の魅力となる。また「食欲の秋」との言葉もあるように、口中の幸福を満たしてくれる季節でもある。日本食は、魚から野菜、キノコまで、ちょうどバランスの良い収穫の季節である。食事に出かける夜の街も、冬ほど寒くなく、夏のように暑くなく、どこも心地良く迎えてくれるはずだ。

そうした、9、10月の秋、少年時代の私は、別の楽しみを持っていた。それは台風である。最初に断っておくが、この天災には被害者が出ることを知らないわけではない。だから今書くことは幼い頃に持った少年の感想と呼んでほしい。私は、実に台風が好きであった。親たちは、台風が近づく前に、雨戸に釘(くぎ)を打ったり、屋根瓦が飛ばないようチェックしたりと大変だったのだが、私は新聞の天気図に台風を表す黒々とした3重丸、4重丸の矢印が東京に向かっているのを見ると、どきどきした。そして当日は学校は休みになり、風音は増し、近くの屋敷の庭に落ちるクルミを取りに行く計画を……いや、東京は幸いなことに、日本列島のやや北東部にあり、大きな被害を受けることがあまり無いので、こんなことを書いているのかも知れない。このあたりでやめておいた方が良さそうだ。

ただ、外から来る人に言っておきたいのは、Judo、Geishaと並んで、日本語がそのまま外国語にもなっているTyphoonに東京で出くわしたら、交通機関に障害が出るかもしれないことを注意しながら、1日は大人しく過ごすことである。たとえ1日潰れても、それは決して旅行者に不幸なことではない。翌朝には、日本語でこの状況を特別に表現する「台風一過」のあとの、とびきりの青空が待っているから。

船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。近著に『歌舞伎に行こう!』(海竜社)を2017年1月13日に発売。高校生の頃より歌舞伎を観続けてきた著者が、いつかは歌舞伎を見たいと思っている人に向けて、ガイドしているエッセイ集だ。ほか、著書に『旅する知』など。

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