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スペイン人写真家イサベル・ムニョスが語る「写真の伝える力」とは

イサベル・ムニョス

インターネットや雑誌など、私たちの身の回りにはさまざまな情報メディアが溢れている。芸術の世界でも、絵画や彫刻、音楽など、たくさんの情報伝達の手段があるが、なかでも特異なメディアが写真ではないだろうか。写真は、音も出さなければ、動きもしない。撮ったものがそのまま作品になるというピュアな表現方法と言えるだろう。にも関わらず、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンら偉大な写真家たちの作品は、鑑賞者に対し、様々なメッセージを発し、語りかけてくる。京都市で開催中の『KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017』で4月15日、写真の伝える力について考えるトークイベントがあり、スペイン人写真家イサベル・ムニョス(Isabel Muñoz)と、キュレーターのフランソワ・シュヴァル(Francois Cheval)が、熱い議論を交わした。対談の様子をレポートする。

ヨーロッパを代表する写真家ムニョスと、30年以上アートに関する執筆活動とキュレーションに取り組むシュヴァルは、2016年のマドリードでの展覧会でもタッグを組んでいる。『KYOTOGRAPHIE』では2シリーズの展示を展開。1つは、霊長類の写真群「Family Album」。チンパンジーが人間そっくりに目を閉じ、母親に抱きしめられている写真や、チンパンジーの家族の集合写真などがプラチナプリントで並んでいる。もう1つが、イスラム教のスーフィズムの儀式や、タイの奇祭などを収めた「Love and Ecstasy」で、内容は衝撃的だ。自傷行為によってエクスタシーを得る人々の姿を捉えたもので、かぎ針で吊るされた人間や、何本ものナイフが口に突き刺さった男など、思わず目を背けたくなる作品もある。

 

「Love and Ecstasy」の作品

 

 

 

 

 

対談は、最初にシュヴァルが、ムニョスに質問をする形で始まった。

シュヴァル:トークに入ろう。霊長類の写真と、スーフィズムの儀式などの写真。2つのシリーズの間にある関係性は何なのでしょう。

ムニョス:私は日頃から、人類がどこからやって来て、どこに向かっているのかを考えて撮影しています。我々が霊長類から進化し、失ったものや得たものは何だったのかと。パプアニューギニアで被写体を探していた時、チンパンジーを見つけたので、撮り始めました。彼らと私たちの感情はどこまで同じで、どこから違うのだろうという興味に突き動かされながら、シャッターを押し続けました。2つの展示に共通するものは、スピリチュアリティ(精神性)だと思います。言葉や文化が違えば私たちは違う生きものだと思いがちですが、どの文化にも、精神性を追求したいという欲望が存在するのです。

自らの身体を傷つけながら恍惚(こうこつ)を得る姿に、人間の根源的な何かを見たというムニョス。シュヴァルは、キュレーターとして彼女の作品を初めて目にしたとき、何を感じたのか。

ムニョス:フランソワはなぜ2つの展示を選んだのですか。

シュヴァル:写真家は自分でテーマやコンセプトを持ち撮影していると思います。けれど毎日新しいものに対してシャッターを切るので、ひょっとしたら、無意識にシャッターを押すこともあるかもしれません。そこに概念という枠組みを与え、作品と鑑賞者を繋ぐのがキュレーターの仕事です。私が彼女のスタジオを訪れた時に、この2つは同じメッセージ性を持っているなと感じました。1970年代くらいから、世界は多様化し、混沌としてきました。そんな世界でも、人間の存在意義という根源的な問いを、写真を通して追求しているイサベルは、クレイジーと言えるでしょう。私は個人的には、写真でヒューマニティを伝えることはできない、写真には限界があると思います。けれど彼女の作品を見ていると、彼女にとって限界はないのだろうと感じ取ることができます。そのイサベルの思いを人々に伝えようと思い、展示を作りました。

 

写真の持つ力について率直に意見を交わすイサベル・ムニョス(左)とフランソワ・シュヴァル(右)

 

ムニョス:フランソワは写真に限界があると言いましたが、私は、写真を撮り続けることで、少しずつですが人々に対して気づきを与えることができるはずです。これが私のやり方で、これからも変わることはないでしょう。私は、写真は愛と情熱がすべてだと思います。自分で愛を感じられないものは撮影しません。

 

マラスのメンバーの撮影風景

 

写真の発信力には限界があるとするシュヴァルと、愛と情熱があれば伝わるというムニョス。議論は活発になっていく。

シュヴァル:イサベルはよく、「撮影では、先入観で何かをジャッジすることはしない」と言いますよね。しかし私は、写真家が被写体にカメラを向ける時点で何らかのジャッジをしていると思います。だって、いつ、何を、どんなふうに撮影しようかと考えているはずですから。例えば、イサベルが撮影した(中南米の犯罪集団の)マラスの写真を例に挙げましょう。幼い女の子をレイプしたような人間を撮影するのですから、必ず心のどこかで嫌悪感を抱いたはずです。でも写真作品からは、それ(嫌悪感)が見えてこないのです。私はマルクス主義者なので、全人類が1つの人間性を共有しているとは思いません。いい人と悪い人がいて、善と悪もある。それでも彼女の作品からは、人類は大きな1つの人間性を共有しているのだというメッセージを感じます。

イサベル:確かにマラスに対しては、愛を持って撮影するのは簡単ではありませんでした。さまざまな感情が自分の中で湧いてきたし、私に危害が及ぶのではないかと恐怖も覚えました。けれど、男尊女卑の文化だったり、貧困の連鎖を生み出した環境などを考えると、結局最終的には何が正しいのかジャッジできないのです。相手の文化的背景を知らないで、主観だけで判断すると、何か大切なものを見逃してしまいます。私たち人類には、光と影がありますが、どん底にいても必ず光はあるのだと、作品を通して伝えられればいいなと思います。

 

「写真は人々に気づきを与えることができる」と語るムニョス(左)

 

トークイベント終了後、ムニョスに話を聞いた。

ー写真家に与えられた使命は何だと思いますか。

ムニョス:愛と情熱を持つことです。謙虚な姿勢で、ストーリー(物語性)を伝えなければいけません。写真家としての人生で私が気づいたことは、人々は作品の先にあるメッセージまで理解でき得る、ということです。だからこそ写真には、人々と共有可能な物語性が必要なのです。アートは、様々な方法でメッセージを鑑賞者に伝えることができます。その分、どのようにしてメッセージを作品に持たせるかを考える必要もあるでしょう。写真には物語性が必要であるということを常に考えなければいけないと思います。

ー『KYOTOGRAPHIE』で観てみたい展示はありますか。

ムニョス:もちろん。ラファエル・ダラポルタ(Raphaël Dallaporta)のショーヴェ洞窟を再現した展示は、ぜひ行きたいですね。(約3万6000年前に描かれた世界最古の壁画が残る)ショーヴェ洞窟は、まさに私たち人類がどこからやって来たのかを知ることができる場所ですから。私の作品と何か共通するものを感じるのです。またルネ・グローブリ(Rene Groebli)の、彼の妻を撮影した写真展も観てみたいです。彼は、作品を通して、妻との大切な瞬間を、観る者と共有しているのです。妻と一緒にいる瞬間という物語です。やはり先ほど言ったように、写真と物語性は切り離せないなと思います。荒木経惟の作品もぜひ観たいですね。展示に使われている建物(建仁寺内の両足院)も素晴らしいと聞いています。

『KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017』の詳しい情報はこちら

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