森谷真理
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ソプラノ歌手、森谷真理がオペラにかける思い

最新公演『ルチア~あるいはある花嫁の悲劇~』を前にインタビュー

編集:
Hisato Hayashi
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テキスト:高橋彩子

日本を代表するソプラノ歌手の一人、森谷真理。28歳でオペラの殿堂、メトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House、以下MET)デビューを果たし、欧米で活躍後、昨年帰国。同年11月に『天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典』で国歌を独唱して改めて注目された。その彼女が、日生劇場の『ルチア~あるいはある花嫁の悲劇~』に主演する。当初上演予定だったオペラ『ランメルモールのルチア』を90分に凝縮して送る舞台だ。新たな公演を前に聞く、森谷の歌手人生と今の思いとは。

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28歳でメトロポリタン歌劇場に大役でデビュー

ーー森谷さんは日本でオペラの舞台を踏む前にアメリカのMETでデビューを果たすという、日本人オペラ歌手としては異色の経歴の持ち主です。歌との出合いは、いつだったのでしょうか?

母がオペラ歌手だったので、物心ついた頃には母が歌うコンサートや市民オペラを観ていましたね。家でもクラシック音楽ばかりかかっていたので、当たり前のように周りに音楽がある環境でした。

ーーサラブレッドですね。武蔵野音楽大学大学院では声楽専攻を首席で卒業。ところが、日本では順風満帆とはいかなかったとか。

日本に関わりのある研修所や奨学金などは根こそぎダメでしたし、留学のための奨学金に応募しても落ちました。理由は分からないのですが、私の外見や性格含め総合的な在り方が、当時、良いように見えなかったのでしょうね。アメリカに渡ってからは比較的順調にキャリアが開けていったので、私には向こうが合っていたのだと思います。

ーーアメリカではマスネ音楽院に進まれましたね。

はい。プロフェッショナルスタディーズコースで学び始めて2年目に、メトロポンオペラ・ナショナルカウンシルオーディションを受けたんです。アメリカ人の有名歌手はだいたいここを通るというコンクールのようなもので、先生には言わずに受けたのですがバレていましたね(笑)。

セミファイナルに受かったところで先生が本気になり、色々とセットアップしてくださって、ファイナルまで残ることができました。そのご縁でMETのカヴァー(代役)の仕事をいただきましたし、パームビーチ・オペラの『魔笛』夜の女王役でオペラデビューしたのもこのオーディションがきっかけ。私にとって大きな転機となりました。

ーー『魔笛』の夜の女王といえば準主役級の役どころ。超高音域のアリアはあまりにも有名です。そして2006年の大みそか、同じ役で天下のMETに堂々デビュー。

人生で一番緊張した瞬間でしたね。自分のキャリアはここで始まってここで終わるかもしれないと思いました。当日のことは今でもよく覚えています。歌い終えて先生が舞台裏に来てくれた時、初めて泣いたのですが、それは感動でも安堵(あんど)でもなく、ひたすらストレスから(笑)。私は当時28歳。日本でオペラの舞台を一つもこなすことないまま、オペラ歌手がゴールとして目標にする最高峰の劇場の大役をいきなりいただいてしまったので、本当に崖っぷちだったんです。

ーー指揮はMETの「顔」だった音楽監督のジェームズ・レヴァイン、演出は『ライオンキング』も手がけたジュリー・テイモアという、ビッグプロダクションでした。

レヴァインに「これでいいかな?」と聞かれても、話をするだけでやっと。私から何かリクエストするなんて発想すらなくて。素晴らしい指揮者ですから、自然に気持ち良く歌うことができました。演出的には、個々の演者がものすごく演技をするというより、やることが決まっているプロダクションだったため、逆にその難しさがありましたね。

私はセカンドキャストだったので、衣裳を着て演じたのは本番当日。客席から観たことはありましたが、歌いながら「ああ、なるほど、これはこういうことだったんだ」と(笑)。でも、METは音響がいいので、歌いやすいんですよ。

ーー28歳の若さで大役を手にして、嫉妬されたりは?

皆さん、とても優しくて親切でしたが、先生には「しゃべらず笑顔を振りまいて、稽古が終わったらさっさと帰ってきなさい」と言われました。あと、いつもTシャツにジーンズという服装だったので、「もう少しきれいな服を着なさい」とも。ありがたいアドバイスだったと思います。

というのも、私が発した言葉を誰が聞いて、どう独り歩きするか分からない。当時の私は、自分の言動に責任を持てるほど大人でもなかったので。実は1カ月ほど前、その当時指導してくださっていた先生が亡くなったんです。とても残念ですが、先生から学んだことは今でも宝物です。

欧米での激動の日々
森谷真理

欧米での激動の日々

ーー欧米のさまざまな歌劇場で歌った森谷さん。METのデビューのほかに、強く記憶に残っている出来事を挙げていただけますか?

私は、歌えなくなった歌手の代わりに急きょ呼ばれる「ジャンプ・イン」が多くて。特に大変だった経験が三つあります。一つ目は、引っ越しの2日前に事務所から電話がかかってきて「夜の女王の仕事があるから、2時間後の飛行機に乗って」と言われたこと。

マンハッタンは時間がかかるので「無理です」と答えたら、「じゃあ、その後の便で」と。急いで家に帰り、荷物を詰めて、飛行機に乗ったのですが、1、2日で帰って来られるかと思ったら1週間帰れなかったんです。引っ越しは知り合いにやってもらいました。同じ建物内での引っ越しだったのが救いでしたね。

しかも、現地に着いて荷物を開けると、靴下ばかりでほかのものが何一つ入っていなくて。自分の中で靴下がすごく重要だったみたいです(笑)。日本と違ってコンビニですぐ買うこともできないので、街を回って必需品を買い集めました。

ーーそれは大変でしたね。二つ目は?

「2日後に本番」と言われた『ランメルモールのルチア』のルチア役です。オーケストラピットの中で譜面を見ながら歌うと聞いていたのに、現場では演技しながら暗譜で歌うようにと言われ、しかもライブストリーミングがあるとのこと。久しぶりに歌う役だったので、慌てて暗譜し直して。大学のプロダクションだったせいか、演出も演出助手もいなくて、舞台監督や歌う予定だった歌手に動きを教えてもらいながら、どうにかこなしました。

三つ目は『カルメン』のミカエラ役で、「明日の夜の公演だからすぐ電車に乗るように」と言われたこと。ちょうどコーチにレッスンしてもらう予定があったので、事情を説明し『カルメン』を見てもらったのですが、これまた演じるのが約1年ぶりであまり覚えておらず。

最初は「ミカエラは出番が少ないからできるよ」と笑っていたコーチが、横で次第に青ざめていくのが分かりました。1回歌い終えて「大丈夫だよ、頑張って」というコーチの言葉は、自分自身に言い聞かせていたのではないかと(笑)。帰りながら先生や知り合いに電話して泣いたら「そんな暇があったら暗譜しなさい」と言われ、「そうだけど!」と思いながら、移動中もリハーサルでもホテルに戻ってからも必死に暗譜して。翌日はどうにかうまくいったので、人生なんとかなるんだなと思いました。

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帰国、そして、国民祭典で国歌を独唱

ーー昨年、欧米での生活に区切りをつけ、日本に拠点を移されましたね。帰国の理由は何だったのでしょうか?

外国暮らしも長くなり、大きな不自由はなくなっていたのですが、オペラ歌手に寿命がある中、「自分はずっと海外で一人で暮らしたいんだろうか?」と思い始めたんです。日本で客演させてもらうようになり、つながりもできたので、「今でないと帰れない。帰ろう」と。思い立った3カ月後には帰っていました。

ーーその年、「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に出演。君が代を歌われました。

METデビューの時と同じくらい緊張しました。かけがえのない尊い場を、自分が一点たりとも汚してはいけない、そんなことになったらこの先生きていけない、と思いましたね。君が代はテンポもリズムも定まっておらず、伴奏もないので難しいんですよ。

ーー実際、さまざまなアーティストによる過去の君が代独唱では、色々と「惨事」も起きています。

歌うことが決まってたくさんの音源を聴きましたが、他人ごとには思えなくて。当日は出番が近づく中、ひたすら最初の音の確認をしていました。「寒いですか?」と聞かれ、「全然寒くないです」と答えたのですが、その後まんまと風邪を引いたので、実際には寒かったんだと思います(笑)。ただ、その時はそれどころではなくて。あの日の天皇・皇后両陛下の神々しいお姿は、今でも目に焼き付いています。

コロナ禍での新たな挑戦、『ルチア』

ーーさて、2020年11月15日(日)に出演される日生劇場の『ルチア』は、当初公演予定だったドニゼッティのオペラの翻案です。どのような作品になるのでしょう?

90分と短い翻案ではありますが、大筋は変わりません。ルチアという少女が、敵対勢力のエドガルドという青年と愛を誓い合っているのですが、ルチアの兄から政略結婚を強いられ、エドガルドはほかの女性に心変わりしたと聞かされて結婚を承諾してしまいます。

そこにエドガルドが現れ、事情を知らない彼から責められたルチアは心が壊れてしまい、結婚式当日、結婚相手を殺して自分も錯乱して死に至るという、少し『ロミオとジュリエット』に似たところのあるお話です。

ーードニゼッティの音楽の魅力を、言葉にすると?

やはり声、声、声という感じ。どれだけ声を華やかに劇的に使うかが重要です。指揮者の柴田真郁さんも演出の田尾下哲さんも、その音楽の魅力を最大限に伝えることにプライオリティーを置いていらっしゃいます。

ーー中でもルチアが歌う「狂乱の場」のアリアには超絶技巧が散りばめられ、大きな聴きどころとなっていますね。

そこがクライマックスですね。しかも技巧だけではない、素晴らしい音楽なんです。「狂乱もの」が流行してたくさん作られた時代があるのですが、その中でなぜこの作品が特に名をはせたかは、お聴きになれば納得していただけるのではないでしょうか。かといってほかのパートがおざなりになっているわけでは決してなく、歌一つ一つがきちんと立っている印象。

1幕のアリアも技巧的に聴かせどころですし、エドガルドとのデュエット、お兄さんとのデュエット、そして、神父のアリアですがルチアとのデュエットに近い曲など、二重唱が続き、さらに主要人物がそろう六重唱があって、そこから狂乱の場に至るまでが一つの流れになっており、どれも外せません。今回は合唱がいませんが、合唱部分も別の形で歌にし、音楽的な要素が凝縮されています。ルチアがプレッシャーを受けて追い詰められていく状況や心情を、ぜひ観ていただきたいですね。

ーー演出的には、感染症対策を逆手に取り、半ば森谷さんの一人舞台のようになるとか。

そうですね。舞台上で演技するのはルチアだけで、ほかの出演者の方はその脇で歌います。ですので、ルチアに聴こえる声との対話というイメージで今は稽古しています。捉え方によっては、狂乱の場が現在、いわば「ゼロ地点」で、そこから過去へと戻って行く感じになるかもしれません。

私がオペラを好きなのは一人ではなく、ほかの方と演技したり歌ったりできるからなのですが、この機会に、今までにできなかった、そして今でなければできなかったであろうチャレンジをさせてもらえるのは、楽しいですしありがたいです。

ーーコロナ禍にあって、オペラは舞台芸術の中でも特に再開まで時間を要しました。

私たちの歌は、大きな会場で、マイクを使わずどれだけお客さまに声を届かせるかが勝負。どうしても飛沫(ひまつ)を避けられません。特にオペラは総合芸術で、合唱にオーケストラにとたくさんの人が関わり、密な状態になるので、検証にも時間がかかりました。そもそもコロナの流行が始まった時、いち早くイベントを中止したのがクラシック音楽業界。それだけ慎重だったからこそ、私たちだけでなくお客さまの安全も考え、再開が遅れたのだと思います。

ーー皆さんの努力のかいあって、オペラも再開し始めましたが、ヨーロッパでは再びロックダウンが始まっていますし、先が見えない状況は続きそうですね。

やはりオペラは生でこそ良さが伝わるものだけに、どうにか工夫して続けていけないかという気持ちがありますが、来てくださるお客さまも、いらっしゃることができないお客さまも、同じようにサポートしてくださっていると感じています。今回は公演のほかにストリーミング配信もあるので、そちらも楽しんでいただけたらうれしいですね。

正解が分からず誰もが手探りの状況ではありますが、やるからには、ただやるのではなく、やる意義のあるもの、さらにいいものにしたいという気合だけはすごくあって。自分に甘えず、今できる最大限のことをしたいと考えています。

高橋彩子
舞踊・演劇ライター。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材。「エル・ジャポン」「AERA」「ぴあ」「The Japan Times」や、各種公演パンフレットなどに執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、ウェブマガジン「ONTOMO」で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、エンタメ特化型情報メディア「SPICE」で「もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜を連載中。

 http://blog.goo.ne.jp/pluiedete

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