一度も訪れたがないはずなのに、「この場所、前にも見たことがある」と感じたことはないだろうか。誰もいないホテルの廊下、夜の公園、利用者のいない屋内プールに浮かぶ青い光。何か恐ろしいものがあるわけではない。むしろ、どこか妙に心地よく感じることさえある。それでも、何かがおかしい。長くそこにいると、その心地よさは少しずつ不穏なものへと変わっていく。
「バックルームズ 」 とは?
インターネットをよく利用する人なら、こうした場所を「リミナルスペース」や「ドリームコア」、あるいは「バックルームズ」と表現するのを見たことがあるだろう。これらの言葉には重なる部分もあるが、それぞれが全く同じ意味というわけではない。
建築や人類学において「リミナル(liminal)」とは、ある場所から別の場所へ移る境界、つまり「間」にある空間を指す。インターネット上では、その定義はより曖昧になっている。廊下や待合室、駅のような実際の「移行空間」と捉えられることもあれば、本来そこにいるはずの人々がいないことで、見慣れた場所が不気味に感じられる空間を意味することもある。
ドリームコアは、子どもの頃の記憶や夢の奇妙な論理に、より重点を置く。遊び部屋、人工の雲、どこまでも続く野原、実際に経験した記憶がないのに懐かしく感じる古い写真などが、そのイメージだ。バックルームズは、そこにある感覚をさらに一歩進め、二度と抜け出せないかもしれない場所へと変えてしまう。
もちろん、何をバックルームズの「レベル」と捉えるかは人によって異なる。ある人にとってはバックルームズでも、別の人にとっては古びた公民館に過ぎないかもしれない。重要なのは、厳密なルールに沿っているかどうかではなく、その感覚にある。どこかで見たことがある気がするのに、はっきりと思い出せない。心地よさと不安が入り混じり、見えている先にも空間が続いているような気がする。そうした感覚こそがバックルームズなのだ。
© 2026 Backrooms Rights LLC, PC Films, LLC. All Rights Reserved. 映画『バックルームズ』
バックルームズの始まりは、窓のない部屋を写した1枚の写真だった。染みの付いたカーペットや黄色い壁紙、蛍光灯が並ぶ天井は、これ以上ないほどありふれている。それなのに、部屋を仕切る壁はどこにもつながっていないように見える。この画像は既にネット上で出回っていたが、2019年5月、海外の匿名掲示板「4chan」のスレッドに「ただ何となく不穏に感じる画像」を投稿するよう呼びかける書き込みとともに登場した。
ある匿名ユーザーは、この部屋にまつわる物語を付け加えた。現実から誤って「ノークリップ」してしまえば、そこにはバックルームズが広がっている。湿ったカーペットとブンブンとうなる照明に囲まれ、何百万マイルも続く空間に閉じ込められる。そして、さらに恐ろしいことに、そこには自分以外の何かがいるかもしれない。
優れたインターネットフォークロアの多くがそうであるように、誰も物語を所有していなかったからこそ、誰もがそこに何かを加えることができた。新たなレベルや脱出ルート、敵対的な「エンティティ」が次々と考案され、黄色い部屋一つだった世界は、始まりも終わりもない巨大な共同創作の世界へと広がっていった。廃オフィスやホテルのようなレベルもあれば、水没した廊下、無人の住宅街、現実にはあり得ない野原、半分しか覚えていない子どもの頃の記憶から再構成されたような屋内遊び場が広がるレベルもある。
そして2022年1月、当時オンラインで「Kane Pixels」の名で知られていた16歳のVFXアーティスト、ケイン・パーソンズ(Kane Parsons)が、YouTubeに『The Backrooms (Found Footage)』を投稿する。BlenderとAdobe After Effectsで制作されたこの短編では、カメラマンが一見すると果てしなく続く迷路へと落ち、静寂が安全を意味するわけではないことに徐々に気づいていく。パーソンズはその後、謎めいた研究組織が空間へのアクセスと調査を試みる設定を加え、ウェブシリーズへと発展させた。
これによって、実際の映画が存在するより前に、この世界観にはすでに「映画」が生まれたようなものだった。やがてバックルームズはTikTokの一大美学へと発展し、サブカルチャーの枠を超えてメインストリームへ広がっていった。
© 2026 Backrooms Rights LLC, PC Films, LLC. All Rights Reserved. 映画『バックルームズ』
東京のバックルームズ
何を探せばいいのか分かるようになると、東京はこの美学を楽しむにはうってつけの場所に見えてくる。戦後の復興、高度経済成長期の野心、平成初期のデザインが重なり合い、まるで先週未来からやって来たかのような建物と今も隣り合っている。他の場所では姿を消した色や看板、素材をそのまま残す建物も多い。
都心を離れると、その感覚はさらに強くなる。地方のリゾートや郊外の娯楽施設、年季の入ったショッピングセンターには、空間の広さ、偶然に保たれてきたデザイン、そして何よりも「人がいない」という、東京ではなかなか得られない条件が揃っている。東京にも理想的な建築はたくさんあるが、問題は訪れるタイミングだ。16時に公園へ行けば、ただの公園。朝食前のまだ青みがかった静かな時間に戻ってくれば、いつ始めたのかも覚えていないゲームの最終レベルのように見えてくる。
© 2026 Backrooms Rights LLC, PC Films, LLC. All Rights Reserved. 映画『バックルームズ』
ここでこうした話をしているのには、理由がある。パーソンズが作り上げた世界が、2026年9月4日に日本で公開されたのだ。A24が制作した映画『バックルームズ』 (Backrooms)では、家具店の地下で奇妙な扉が発見されたことをきっかけに物語が展開する。キャストにはキウェテル・イジョフォー(Chiwetel Ejiofor)やレナーテ・レインスヴェ(Renate Reinsve)らが名を連ねる。パーソンズはまだ10代のうちから映画の開発に取り組み、北米興行ランキングで初登場1位を記録した作品を監督した、史上最年少の映画監督となった。
既に耳にしているかもしれないが、『 バックルームズ 』は北米で8,150万ドル(約126億円)、世界で1億1,800万ドル(約183億円)の興行収入を初週末に記録し、A24作品として過去最高のオープニング記録を打ち立てた。匿名の4chan投稿から始まり、YouTube動画やファンWiki、そして黄色い部屋について考えるのをやめられなかった人々が作ったゲームを通じて広がったものとしては、驚くべき飛躍だ。
これは、今の文化がどのように広がっていくのかについても多くを物語っている。インターネット上の都市伝説には、何十年もの歴史も、既存のハリウッドフランチャイズも必要ない。同じ「何となく不気味」という感覚を何百万人もの人が共有するだけで、十分な場合もあるのだ。
アナログホラー、子どもの頃のノスタルジー、あるいは色彩豊かな悪夢のような世界観。どんなスタイルのバックルームズが好みでも、東京周辺にあるこれらの場所を訪れれば、現実から「ノークリップ」することなく、その世界に入り込んだような気分を味わえるだろう。