日本唯一のプロ阿波踊り連、寶船とは

高まる海外人気、阿波踊り界の異端が切り開くもの

テキスト:
Kunihiro Miki
広告
インタビュアー:八木志芳

日本の盆踊りの代表格である阿波踊り。発祥の地である徳島県だけではなく、東京・高円寺や埼玉・南越谷など、全国各地で大会が行われるほど浸透している伝統芸能だ。

そんな全国の阿波踊り大会に参加し、話題をさらっている寶船(たからぶね)という東京の連(踊りの団体)を知っているだろうか。「日本初、唯一のプロ阿波踊り集団」を名乗り、都内の大会はもとより、全国各地、さらに海外でも公演する人気の連である。

人気の理由は、従来の阿波踊りと違い、エンターテインメント性の高い個性的なスタイルだろう。オリジナリティーのある振り付けや、女踊りと男踊りを分けない構成など、革新的なパフォーマンスを提示し続けている。

なぜこのような踊りが生まれたのか。阿波踊りのプロとしての覚悟や決意など、プロデューサー兼プロメンバー「BONVO(ぼんぼ)」のリーダーである米澤渉(よねざわ・わたる)に話を聞いた。

法人化への経緯
米澤渉

法人化への経緯

ー寶船が結成された経緯を教えてください。

徳島出身の父が1995年に結成して、僕や姉の同級生が参加していました。当時の僕は小学4年生で、それからずっと踊っています。結成当初は、子どもたちの連という感じでしたが、踊りの熱量のようなものは今も変わっていないと思います。

ー米澤さんはミュージシャンとしても活動されていたそうですね。

19歳から26歳までは「音楽で生きていきたい」と思うぐらい、本気でバンド活動をしていました。バンド活動の間も阿波踊りを続けていましたが、家族との接点であり、ライフワークという意識でした。

ただ、ミュージシャンとして音楽を作っていくなかで、他人の真似事ではなく、「自分独自の表現をしないといけない」「自分らしさとは何か」という壁にぶち当たってしまって。そして、バンドは解散しました。

バンドが解散する前に、自分自身のやりたいことを冷静に見つめ直した期間があったんですが、そこで「阿波踊りには、何百、何千人という人々を熱狂させるパワーがある。自分がバンドでやりたかったことは阿波踊りでできるんじゃないか」ということに気がついたんです。

そんなことを考えている時に、寶船初の海外公演をハワイで行なったり、東日本大震災が発生したり、バンド解散が決定したりと、いろいろなことが重なって、「阿波踊りで人の心を明るくしたい、阿波踊りに人生を賭けたい」と思うようになりました。

ー2012年に寶船の運営団体を法人化して、日本初のプロの阿波踊り団体になるわけですが、プロになった理由は何でしょうか。

イベント会社からオファーを受けたり、クライアントと仕事をしたりする時に、法人化した方が動きやすかったというのが一つです。

高校の同級生に「鼓童」という世界的な和太鼓グループに所属しているメンバーがいて、彼が世界中で活躍している姿に、憧れの気持ちがありました。

そこで「太鼓で世界を回れるなら、踊りでも世界を回れるんじゃないか」と思い、エンターテインメントで生きている人たち、三味線からブルーマン、アイドルまでを研究し尽くして、戦略を立てました。そして、法人化を決めたんです。

Japan Expoで目立つために

Japan Expoで目立つために

ー寶船は、エンタメコンテンツとしての「進化した阿波踊り」を提示していますが、それも戦略のひとつですか。

そうですね。でも原点は、僕がバンドマン時代に、ライブハウスで阿波踊りのワンマンライブを開催したことです。昔、新宿JAMというライブハウスがあって、そこの店長にかわいがってもらっていたんです。僕が阿波踊りをやっていると知ると「阿波踊りでワンマンライブやってよ」と言われて。でも、ワンマンライブとなると90分という時間を、阿波踊りだけで埋めなくちゃいけないわけで、ただ踊るだけでは30分ぐらいしか持たない。

そこで、芝居っぽいものを取り入れたり、コールアンドレスポンスをしたり、しっとりした踊りを入れたりと、あらゆる要素を取り入れてステージを作りました。新宿JAMでのワンマン公演は4回ぐらいやったと思います。

あとは、海外公演での経験も大きいです。例えば『Japan Expo』に出ると、共演する日本人アーティストは、乃木坂46やYOSHIKIさんなど知名度がある人たちばかりで、無名な僕たちは食われてしまう。だから奇抜な演出を取り入れるなど、初めて見てくれる観客をいかに盛り上げるかを考えていくうちに、今のスタイルになりました。

 

広告
寶船は阿波踊りの入り口

寶船は阿波踊りの入り口

ー「阿波踊り界の異端」とも言われていますが、他の阿波踊りの連から批判はないのでしょうか?

昔はあったかもしれませんが、今はほとんどないです。ただ、そんな現状すら壊すぐらいのことにチャレンジしたい。お寿司でいえば、カリフォルニアロール的な存在でいいと思っているんです。真においしいお寿司は高級店に行けば食べられるけれど、それではハードルが高くて一般には広がらない。回転寿司のような大衆店も必要です。

阿波踊り文化の中心には徳島の人たちがいます。俺らは阿波踊りという文化の外枠を広げる活動をしているんです。僕らがニューヨークで踊る際は、ニューヨークで受け入れらるようにカスタマイズをするけれど、そこで阿波踊りに興味を持ってもらえたら徳島に来てくれるだろうし、結果的にインバウンドにつながる。寶船は阿波踊りの全てじゃなくて、阿波踊りの入り口なんです。

実際今日(取材日は『下北沢一番街阿波踊り』初日開催の直前)も、フランスから来た阿波踊りチームが一緒に参加しますが、彼らはフランスで僕らの踊りを見て、結成された連なんです。

広告
多様性の時代だからこそ、祭りは必要

多様性の時代だからこそ、祭りは必要

ー寶船を初めて見た海外の人々の反応はどんなものだったのでしょうか。

太鼓のリズムというのは、人間の体の奥底に響くからなのか、アメリカでもヨーロッパでもアジアでも、みんな楽しんでくれています。寶船のコンセプトは本能を解放していくことなので、どんなバックグラウンドの人にも受け入れられやすいんだと思います。

阿波踊りはもともと無礼講の祭りと言われていて、「身分に関係なくみんなで踊ろう」という精神がありました。ただ、20世紀に入り集団美が強調されるようになった経緯があります。でも、これからは「集団」よりも「個」が重視される時代。集団美としてクオリティーが高いものではなく、個人の努力、人柄、ストーリーが他者を引きつけ、応援してくれる。

先日、徳島の阿波踊りに参加したとき、メンバーの一人がステージ上でプロポーズしたんです。そんなの通常の阿波踊りではあり得ないと思うんですが、それこそがライブであり、そこでしか体験できないもので、まさに祭り。

踊りの技術だけを追求するのではなく、歪でも感情を解放したカオスな空間の方が、お客さんの満足度が高いです。

ー今は2020年の東京五輪に向けたインバウンド関連のイベントにも呼ばれることも多いと思いますが、2020年以降の活動についても考えることはありますか?

僕たちは阿波踊りを広めたいと思っています。いろいろな国の人たちが、阿波踊りという手段を人生を楽しむ習慣として取り入れてもらえればいいなと。そうすれば、世界に阿波踊りのフェスができてカルチャーとして根付いていく。

だから、インバウンドだけではなくアウトバウンドにも力を入れて、阿波踊りの熱狂を広めていくことで国や宗教の違いを超えて、踊りのもとではみんながハッピーになれる瞬間を作っていきたいです。多様性の時代だからこそ、祭りは必要だと思うんです。

ー明確なビジョンですね。今後の予定を教えてください。

来年は中南米の5カ国まわるツアーを行うことが決まっています。メキシコや、ホンジュラス、コスタリカなど。中南米といえば、リズム発祥の地です。メキシコ最大のパレードに参加して、寶船として踊ります。

現地の楽器や踊り手とどのように絡んでいくかは全くの未知ですが、きっと言語の壁を超えて、みんなで楽しめる空間はできると思うんです。

そして、僕たちの活動が逆輸入的に国内でも広がって、「寶船の踊りを見に行こうぜ!」という人が増え、ビジネス的にも成功することが、阿波踊り文化をさらに根付かせることにつながると思っています。日比谷野外音楽堂で単独ライブができるぐらいに成長したいです!

寶船

阿波踊りの本場、徳島県出身の米澤曜(よねざわ・あきら)が主宰となり、1995年に東京で発足。現在は息子の米澤渉が主宰を務める。2009年には阿波踊り界としては異例のライブハウスでの単独公演を開催し、チケットは即日ソールドアウト。2012年、マネージメント事務所を法人化し、日本初のプロ阿波踊り集団となる。近年では、学校公演や海外公演なども精力的に開催している。現在、メンバーも募集中。

公式サイト:
https://takarabune.org/

八木志芳  
ラジオDJ、ナレーター。大学卒業後、IT企業・レコード会社を経て、ラジオ福島にてアナウンサー、ディレクターとしてのキャリアをスタート。Tokyo FmグループのMUSIC BIRDを経て現在は関東を拠点にフリーのラジオパーソナリティー・ナレーターとして活動。FM PORT「LIKEY」MC、FM FUJI『SUNDAY PUNCH』レポーター出演中。

Twitter

関連記事

  • Things to do

テキスト:大石始 8月25日、東京西部と埼玉県をつなぐJR武蔵野線の南越谷駅に降り立つと、心浮き立つような阿波踊りのお囃子(はやし)が流れ出した。夏の一時期、南越谷駅および同駅に隣接する新越谷駅の発着メロディーは、阿波踊り仕様に変更される。駅を出ると、あらゆる場所に『南越谷阿波踊り』の開催を伝えるポスターが貼られていて、駅前には踊り子の銅像まで立っている。まさに阿波踊り一色だ。 埼玉県越谷市南越谷。ここは知る人ぞ知る「阿波踊りの町」だ。毎年8月下旬には3日間にわたって『南越谷阿波踊り』が開催され、決して大きくはない南越谷の町に70万人以上もの人々が詰めかける。 始まりはバナナの引き売りから南越谷阿波踊りの成り立ちは少々特殊だ。関東で最もよく知られているであろう高円寺の阿波踊りは、もともと商店街振興組合と青年部の誕生をきっかけとして1957年にスタート。関東で行われている阿波踊りは、そのように商店街が地域振興のために始めるケースがほとんどだ。だが、南越谷阿波踊りは地元の住宅会社であるポラスグループの創業者、中内俊三の「とある思い」のもと、1985年に第1回が開催された。 中内は徳島県板野郡土成町(現在の阿波市)の農家出身。東京で一旗揚げたいという夢から、26歳のときにボストンバック一つで上京。最初は東武線沿線のいくつかの駅で鶏卵販売やバナナの引き売りを始めた。 時代は1960年代半ば、高度経済成長期真っただ中である。バナナは高級品だったこともあって売り上げも良く、自宅兼店舗を建てることを決意する。だが、当時は抵当権がついたままの物件や接道してはいけない物件を売りつける悪徳業者が多かったという。そのことに憤慨した中内は、自ら不動産会社を立ち上げる。それが1969年7月、埼玉県草加市で創業した中央住宅社だった。後に越谷へと本社を移し、ポラスグループという埼玉県南東部を代表する住宅会社へ成長した。 新旧の住民が「新しい町」に愛着を持つために もともと越谷は日光街道沿いの宿場町であり、周辺地域は古くからの農村でもあった。戦後その一部では宅地化が進められ、南越谷はそうしたなかで築き上げられた「新しい町」の一つだった。都心からも電車でさほど遠くないことから東京のベッドタウンという一面を持ち、この30〜40年で人口が急増。現在も居住者は増え続けているという。 そんな南越谷に新しくやってきた住民たちは、さまざまな土地の出身者。その上、職場や遊び場のある東京に半分身を置いているという意識があるため、越谷という土地に対して愛着を持ちにくいという実情があった。 そのため、ポラスグループは1970年代より盆踊りを企画。新住民にとっては新しく移り住んだ土地に対する愛着を深める機会となり、旧住民にとっては新住民と触れ合う機会となる。これが『南越谷阿波踊り』の前身になった。ポラスグループおよび一般社団法人南越谷阿波踊り振興会の広報も務める青栁孝二は、当時のことをこう話す。 「盆踊り大会は開発現場などを利用し多いときは7カ所ぐらいでやっていたようですが、当時、各地で自治会活動が盛んになってきて、そちらでも盆踊りをやるようになってきた。であれば、何カ所かでやってる自分たちの盆踊りを一つにまとめて、『ふるさとづくり』を目的とする祭りができないかということで、中内が徳島にいたころからなじみのある阿波踊りをやることになったんです」そこには自分を育ててくれた徳島という故郷と、自分たちを受け入れてくれた越谷の地に対する恩返しという思いも中内のなかには

Photo of the Day - 第36回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り
  • Things to do
  • シティライフ

Photo:Yasuhisa Shimbo、Kisa Toyoshima   2017年8月30日(水)、31日(木)、晩夏の錦糸町で『第36回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り』が開催された。1982年に本場大阪から錦糸町に持ち込まれた河内音頭。現在では高架下を会場に2日間で3万人を集める大型「フェスティバル」となった。地元民はもとより、グルーヴのある音楽や高揚感あふれる空間に魅了された人々が日本中から集まってくる。伝説の河内音頭シンガー、ジェームス・ボン(James Bong)が登場するなど、今年も大いに盛り上がった会場を写真で振り返ってみよう。 タイムアウト東京では『第36回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り』のムービーレポートを動画ガイドの「PLAY TOKYO」と共同で制作。『YouTube』上で公開中だ。                                                                      

おすすめ
    関連情報
    関連情報
    広告