養老孟司が語るアート。ヨコトリ本番に向けたトークイベントがスタート

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Time Out Tokyo Editors
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2017年の夏から秋にかけて、現代アートの祭典『ヨコハマトリエンナーレ2017』が横浜で開催される。そのタイトルである「島と星座とガラパゴス」をより深く理解するために開催されるのが、展覧会だけでなく様々な分野の専門家を招いて議論を重ねる公開対話シリーズ『ヨコハマラウンド』だ。会期中含め約10回が予定されている。その記念すべき第1回が、1月中旬に横浜美術館で開催。登壇者は、解剖学者の養老孟司。対談相手は、美術批評家で、解剖学者として養老との共著もある布施英利だ。付き合いの長い2人の対談は、まるで研究室での談話を聞いているようだった。そこで筆者が聞きかじった話だと思って読んでほしい。

「変なテーマだと思われたでしょう。または中身お分かりの人もいるでしょうか。現代というのは0と1でできてるんですよ」

第1部は養老が1人による基調講演。唐突に始まったトークに、これが音に聞く養老節かと目を白黒させてしまった。現代人が手放せないスマートフォンは「0と1」でできている。最初の話題は2進法だった。スマホなどが持つ、優れた情報処理能力は人間の生活をより豊かにしてくれる。一方で、いつかコンピューターに仕事をすべて奪われてしまうのでは、という不安があるのも事実だ。養老のもとにはこうした不安に対する助言や、気休めの言葉を求めてくる人が後を絶たないそうだ。筆者もその1人と言える。しかし、そういった不安を、彼はまったくもってナンセンスだと切り捨てる。コンピューター(=技術)は情報処理に特化したマシーンである。先日囲碁の試合で人間がコンピューターに負けたことがニュースになっていたが、それは当然の結果。人がオートバイと徒競走をしたら負けるように、囲碁の試合でも情報処理に特化したコンピューターが人間に勝って当たり前、というわけである。

ではアートはどうか。養老の持論はこうだ。まず、情報処理能力の優れたコンピューターには本物を作ることはできない。文明とは、人々が同じ技術を享受することである。それは今日ならたとえばスマホであり、誰が検索しても同じ結果を得ることができる、ということだ。19世紀以降の人類の技術の歴史は複製技術(=コピー)の精度向上にあったとも言える。その最たる例が版画や写真、印刷だった。しかし、アート(=本物)とは「0」でも「1」でもなく、また「A=B」という明確な答えで表せるものではない。人間の感覚に訴えるものである。これまで技術はその解像度を上げることで、「0」と「1」の間を近づけようとしてきた。しかし、0と1しか表現できないコンピューター(=技術)には、0と1の間にあるアートを作り出すことはできない。

養老のトークは、聴衆の「情報処理」能力を試すように、話題を緩やかに変えながら静かに幕を閉じた。愛猫やSMAPの話を交えながら、人間の当たり前を捉え直すような内容はまさに『バカの壁』だった。続く第2部の対談は、布施が振った話題に対し養老がコメントする、というものだった。1部とは打って変わって、布施が最近行ったパリのポンピドゥーセンターで買ったマグリットの眼鏡拭きから、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作『最後の晩餐』に隠された解剖学的な見方など、話題は飛びに飛んだ。聴衆は彼らの言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。30分という時間はあっという間に過ぎていった。

『ヨコトリ』終了まで約10回の開催を予定している公開対話シリーズ『ヨコハマラウンド』。豪華な構想会議メンバーによるトークショーはどのようなものとなるのか、対談相手に招かれるのはアーティストか、学者か、建築家か。続報を待ちたい。

ヨコハマトリエンナーレの詳しい情報はこちら

『最後の晩餐』の新たな見方を披露する布施

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