「命ある限り踊り続ける」ギリヤーク尼ヶ崎の壮絶な生き様

生活の糧は投げ銭のみ。伝説の大道芸人が踊り続ける理由とは
ギリヤーク尼ヶ崎
作成者: Hiroyuki Sumi |
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テキスト:鷲見洋之
撮影:谷川慶典

大道芸人のギリヤーク尼ヶ崎の青空舞踊公演が2017年10月9日(月)、新宿の三井ビル55広場で開催される。来年で大道芸人として50周年を迎えるだけに、「これまでに出会い、支えてきてくれた人たちのため、感謝の気持ちを持って踊りたい」と気合を込める。国内外で人々を魅了してきた「伝説の大道芸人」を取材した。

ギリヤーク尼ヶ崎

伝説の大道芸人

櫛(くし)を持つ手に、力が込もった。勢い良く白髪交じりの長髪をとぎ、すっと顔を上げる。目はかっと見開き、口は真一文字に締まり、霊気のようなエネルギーが漂った。両手を手刀のようにし、顔の前に構え、前後に足を運ぶ。そこには、ついさっきまでフラフラと歩を進めていた老人の姿はない。左、右、左と手を繰り出し、力強くステップを踏む。「これはね、チャンバラという踊り。一人称の踊り。今初めて披露したんだけど、できるね。まだまだできるよ」。記者に対し、興奮気味に言葉をまくしたてた。 

ギリヤーク尼ヶ崎。87歳。

人は彼を「最後の大道芸人」「伝説の大道芸人」と呼ぶ。1930年に函館市に生まれ、38歳で銀座の街頭で舞踊を披露して以来、49年間、大道芸人として投げ銭だけで生計を立ててきた。赤いふんどし姿で体をよじり、走り回り、数珠を激しく振り回し、南無阿弥陀仏を唱える。その激しい踊りは、「鬼の踊り」「情念の舞」などと称される。これまで、パリやニューヨーク、ロンドンの街頭でも踊り続け、地元の新聞に一面で取り上げられるなど、喝采を浴びてきた。

踊りを始めた当初は、ピエロの格好をしてパントマイムのような芸をしたり、バレエダンサーの格好での舞を演目に入れたりしていたが、次第に自然や風などからインスピレーションを得るように。創作舞踊に取り組み始め、津軽三味線の音色が哀愁を誘う「じょんがら一代」や「念仏じょんがら」などの代表作を生み出した。「自然の動きを見つめているうちに、スローな動きもできるようになった」という。以後、阪神大震災に見舞われた神戸市や、アメリカ同時多発テロの跡地グラウンド・ゼロ、東日本大震災に襲われた気仙沼市などを訪れ、がれきの中、犠牲者のためにも踊った。情念を込めた舞は「祈りの踊り」「鎮魂の舞」と評された。

ギリヤーク尼ヶ崎

投げ銭の最高額は78万円

大道芸を始めてしばらくは、警察から道路使用許可を取らずにゲリラ的に街中で踊っていたため、署に連行されることもしょっちゅうあった。「調書は85回くらい書いたね。罰金を取られたことは一度もないんだけど」。パリのシャンゼリゼ通りでも捕まった。「でもね、警察署から出る時、刑事さんが『シャンゼリゼはパリの顔です。その赤ふんどしだけはやめてください』と笑顔で握手してくれたの。やっぱりパリという街は芸術に理解があるのだと思いました」。

東京中の大学祭にも片っ端から出演した。女子大でふんどし姿で踊ったときには、学生たちの表情は真っ青になってしまったという。「昔を思い出すと、苦笑いばかりだね」と懐かしそうに振り返る。

1回の公演で得た投げ銭の最高額はなんと78万円にのぼる。ただそんなことは例外で、ほとんどの場合は「観客の半分がお金を入れてくれたら大したもの」という程度。それでも「投げ銭で食っていけないということは、自分の踊りがその程度ということ」と、大道芸人を諦めることはしなかった。「ニューヨークの人は感情の出し方がはっきりしている。良い芸と思えば、手を叩いてくれるし、お金も(カンパの箱に)入れてくれる。面白くなければすぐに帰る。でも東京はおとなしいね。誰かが最初にお金を入れるのを待つんだよ。盛り上がったのに全然入らないこともある。この差は何だろうね」。

次々と襲う悲運

尼ヶ崎の人生は苦難の連続だった。1951年に祖母を亡くし、同じ年に21歳で映画俳優を目指し上京、俳優座や撮影所に応募するも、ことごとく落とされた。理由は「北海道のなまりが強すぎる」ということだった。この頃は、悲しい出来事が次々と尼ヶ崎を襲った。1955年に父の和菓子店の経営が行き詰まり、閉店。新たに秋田で再起を図るも、翌年に大火が街を襲い、工場も灰と化した。その1ヶ月後には、弟が敗血症で死去。翌年5月には父が息を引き取り、12月には妹も病死した。

そしてついに苦難の矛先は、自身に向けられた。路上で前後左右上下に乱れ舞う尼ヶ崎の体には確実にダメージが蓄積し、1983年に半月板を損傷。2008年には心臓にペースメーカーを入れた。昨年、腰に激痛を感じ医者を訪れると、脊柱菅狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)と診断された。骨が変形し、背骨の神経が圧迫されてしまう難病だ。「背中の神経は頭までつながっているから、後頭部もすごく痛いんだよ」。さらに今度はパーキンソン病に罹患していることが判明した。

数年前までは、80を越える年齢とは思えないほどの激しい動きを見せていた尼ヶ崎だったが、急激に動きに支障が現れ始めた。やがて歩くこともままならなくなった。今でも手は震え、練習をしていても、足のしびれが気になってしまう。

ギリヤーク尼ヶ崎

「僕は母さんに何の恩返しもできなかった」

それでも踊り続ける尼ヶ崎の強い意志を支えているのが、26年前にくも膜下出血でこの世を去った母の存在だ。踊りを見に来たことはないが、ニューヨーク公演に行く際、自身の生命保険を解約し渡航費を工面して送り出してくれた、優しい親だった。1984年からは、世田谷のアパートで2人で暮らしていた。今でも、踊りの前には亡き母が「勝見ちゃん、精一杯踊りなさいよ」と励ましてくれているという。「調子がいいからって手を抜いたらだめ」「うまくいかなくても、がっかりしないで」「一番じゃなくてもいいんだよ」「自分の気持ちに従って、心を磨きなさい」。すべての言葉が、背中を押してくれる。

「僕は母さんに何の恩返しもできなかった」。涙を流しながら、亡き母への思いを口にする尼ヶ崎。「踊りがあるから、自分が生きていると自覚できるんです。すべてのものに感謝し、精魂込めて生きていきたいと考えています」。

ギリヤーク尼ヶ崎

命ある限り踊り続ける

2018年には50周年を迎える。そのためにも、10月9日の新宿公演はなんとしても成功させなければいけない。「来年、無事に新宿公演ができたら、パリでもう一度踊りたいな。引退はありません。体がぼろぼろになっても、命ある限り踊り続けます」

『ギリヤーク尼ヶ崎 青空舞踊公演』の詳しい情報はこちら

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