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10月21日、ニューヨーク近代美術館(MOMA)がリニューアル

Photograph: Ali Garber
Photograph: Ali Garber

今年の6月からリニューアルのため休館していたニューヨーク近代美術館(MOMA)が、10月21日(月)にリニューアルオープンした。ここではプレビューに参加したタイムアウトニューヨークの記者のレポートを紹介したい。

もし美術館が空港へと形態を変えることがあれば、それは新たに規模を拡大して改修され、再創造されたニューヨーク近代美術館(MoMA)のような見た目になるかもしれない。入館受付はチェックインカウンターのように見え、今にも搭乗券を発券しそうな自動キオスクの追加によりさらに印象が強められている。デジタルサインが至る所にあり、見るものをどこかへと導くこともなく方向を指し示して点滅し、それぞれのギャラリーは出発ゲートと出発ゲートの間の回廊のように果てしなく連なっている。

端的に言うと、その場所は、ちょっとした商業化された乱雑さを表現している。ただしその乱雑さは、美術館鑑賞が黙想的な活動から没入型の利用者体験へと、最終的な変容を遂げたことを反映するものでもある。これは批判というよりは、 MoMAが時代の物事の仕組みを理解していることを認めるものである。むしろ、MoMAはそうした仕組みを理解しすぎているとさえいえる。

実際に、近代的で典型的な20世紀の機関である同美術館は、 21世紀に向けて自らを、外面だけではなく哲学的にも作り変えようとしている。その基本的な方法は、「これまでのやり方は何から何まで間違いだった」と認めることである。 MoMAが白人で男性の西洋美術家を特権視する教理を人々に強要する、正統派的な近代主義のためのバチカンのような存在であるという考えは、すっかりなりを潜めている。

こうしたことに向けられていた熱意は、今度はそっくりそのまま、美術史の人種的、性別的、民族的多様性を奨励するという課題に当てられているのだ。以前はそれぞれの部門により用心深く保護されていた、写真、絵画、デザイン、建築などという分野ごとのはっきりとした区分も取り払われた。今ではフィルムの断片、建築の見取り図、絵画など、異なる媒体のオブジェが一緒に展示されている。それらの媒体が合わさることによって生み出されるものは、主任キュレーターのAnn Temkinが最近述べたように、 「一つの長い物語を伝えるというよりは、一連の短い物語を伝えるもの」である。

これは、理論上は結構なことであるが、現実の結果はまちまちである。女性で抽象表現主義者のLee KrasnerとHedda Sterneの作品を、しばしば神聖視される同時代アーティストのJackson PollockとWilliam de Kooning の作品と並べて展示することなどは、遅すぎたほどだ。

しかしあまり明確でないのは、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』に対するFaith RinggoldやLouise Bourgeoisの「応答作品」を、上記の絵画と一緒に展示する理由だ。まるで女性による作品とともにピカソの作品を展示することによって、彼の性的搾取者としての世評から人々の注意を逸らそうと試みているかのようであり、その試みはこれら女性アーティストたちを傷つけるものでしかない。MoMA は『アヴィニョンの娘たち』を20世紀の芸術の最高傑作であると推奨した立役者であるが、今になってそのことに対する責任を放棄しようというのだろうか? 

対照的に、 MoMAはさほど物議をかもしていないMatisseや Brancusi などの人気者の作品にはむやみに手を加えるようなことはしていない。彼らの作品はわずかな修正も受けず、それなりに安定した広さの空間で展示されている。 包摂性や多様性の議論は必要なものであるが、最終的にそれは現代美術を支配する唖然(あぜん)とするほどの独創性の欠如を覆い隠すものだ。

どこで誰がそれを制作しようと、今日の芸術は嫌になるほど特定の方式に従っており、全て同じに見えてしまう。これはモダニズムの教訓が世界的に喧伝(けんでん)されたことによるところが大きく、 MoMA がそこに果たした役割は小さくない。過去に悪とされた芸術における独創性のなさは、いまや美徳とされている。そうであるならば、芸術の進歩についての統合的な物語を促進することに、確かに意味などないのであろう。そのような物語は、啓蒙(けいもう)されるかもしれないが、ただ疲れ切って美術館を後にするだけになる可能性もあるだろう。

『The newly re-opened MoMA has a new story it wants to tell』原文はこちら

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