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東京を創訳する 第14回『住居 2ー「ウサギ小屋」バンザイ?』

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

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タイムアウト東京 > アート&カルチャー東京を創訳する > 第14回『住居 2ー「ウサギ小屋」バンザイ?』

テキスト:船曳建夫

 

日本を訪れても、くれぐれも日本人に自宅に招かれることを期待しないでほしい。それは日本人に「おもてなし」の気持ちがないからではない。日本の住居は、スパのようなもので、他人をお招きするにはあまりに住居内の親密さが高すぎるのだ、とは、前に「住居」についてお話ししたことだ。ただ、日本人に、どうして日本ではあまり他人を招いてパーティなどしないのか、と聞けば、普通は「狭くて他人は呼べないから」と答えるだろう。そういえば、昔、日本がバブルだったころにも、「日本人は金は持っているけれど、家はウサギ小屋みたく狭い」と言われたことがある。そんなことを書いた外国人特派員は、一に観察、二に考察が足りない。

まず、日本と言っても、江戸時代であれば、7、8割の人が住んでいた農村地帯では、家はもっと大きかった。二町歩(2ha)くらいの田畑を持っている中堅どころの農家は、今も残る民家を観察すれば分かるように、広さだと今の豪邸に匹敵する。武士以外の庶民の家が狭いのは、江戸、京、大坂といった都市部であった。ならば、明治以降、みな農村から都会に出てきて暮らすようになり、日本の大部分の家はウサギ小屋になった、と考えればよいのか。というと、そこには、この連載ではおなじみの、再考すべき「謎」が潜んでいる。

まず、きちんと順序立てて話さなければいけない。ここ、東京を例に取ろう。江戸(東京)は政治都市であった。徳川幕府が大変な公共事業として、長期にわたる都市計画のもとに江戸の町を作った。そこでの主人公は、武士である。300ほどの大名や、大身の旗本、かれらの広大な屋敷が、江戸の中心から周辺に向かって、たくさん作られた。その残りの土地が、商業施設や、町人の住居に当てられた。ついでに書いておけば、そうした広壮な屋敷は、明治になると薩長の大物や、元大名が華族となって受け継ぎ、また、政府の公共施設、軍の練兵場や大学ができた。今でも東京の都心部で、高台に広い敷地の大学や病院、公共施設、ホテルがあったら、たいていは江戸時代の「大名、旗本屋敷」の跡地である。

このように、今でも高台の広い敷地の施設とその周りに狭い住宅地や商業地とが併存している東京のありようは、江戸開府以来の名残りである。考察すべき問題は、その「狭さ」にもかかわらず、日本都市部の庶民の家は、決してウサギ小屋ではなかったことである。

その謎は、江戸の町人の住まいが、この町の総合的なシステムの一部として存在したことにある。一家族が長屋に占める空間はたとえば6畳一間と小さな台所だけ(!)だったとしても、そこは、布団を敷けば寝室になり、布団を上げればリビングとなるという意味で、2倍の広さの住まいに匹敵する。さらに、水周りは共用の上水道か井戸として外にあり、風呂はもちろん湯屋に行くし、トイレも共用であるから、6畳一間は家族が団欒し、休息し、明日の活力を養うには十分となる。生活の「衣食住」の内、「」は部屋中に足の踏み場もないほど買ったりするのは、最近のばかげた習慣で、もとより着物は畳めば小さくなる。「食」も冷蔵庫がなければ、米と漬け物以外はその日に食べる分だけ買いに行けばよい。かくして、「住」の内部は物であふれかえったりしない。

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さらに、住まいが江戸というシステムの一部であった、という意味は、そうした物質生活のインフラが、整っていただけでなく、浮世の日々を過ごすには、様々な「精神生活」の設備も整っていたのだ。まずは、神社仏閣が、お詣りも受け付ければ、縁日や祭で、個人とコミュニティの双方の心を満たす。そうしたければ、季節毎には花見に出かけ、金があれば芝居や演芸や相撲などのエンタメもある。もちろん、一家団欒の食事や家飲みではなく、外で飲んだり食べたりしたければ、食事処や飲み屋は安いところからハイエンドまで江戸には揃っているし、家内のセックスだけではなく外でしたければ手軽なのから吉原まで……、おっと、筆が滑りそうだが、江戸は何しろ、単身赴任の武士や結婚できない次、三男など、独身男子が多かったので、そうした人々の「福祉施設」という観点からも、都市インフラは上から下まで揃っていた、というわけだ。

それもこれも、江戸の前期からすべて十分だったのではないし、こうした都市インフラを享受するには金がないとならず、別に江戸(時代)バンザイ、といっているわけではない。筆が滑ったあたりは、女性の立場はどうなんだ、という突っ込みが入るだろうが、ここではそこまでは店を広げない。ここで言いたいのは、ウサギ小屋のように見えて、それは江戸という都市機能全体のなかで、住居として十分に機能していたことだ。

現代はどうだろう。明治以来、欧米型のライフスタイルが徐々に浸透すると、長屋にあった公共空間の利用法は、装置も技術も薄れた。しかし、欧米型のライフスタイルが取って代わることはなく、しかし江戸型のライフスタイルに丸々戻れるわけもないまま、時に、ウサギ小屋の暮らしぶりも「これもいいかな」とか思いつつしぶとく残っていて、双方が中途半端なところで平行線を辿り、今の都市の暮らしを扱いにくくしている、というのが私の見方である。ただ、「寝るところは小さくとも、都市を大きく使って暮らす」、というのは現在の東京の人間にも当てはまるところがある。それは、19世紀半ばまで練り上げられた江戸のウサギ小屋のライフスタイルが、長屋の中にも外にも、「公共空間」という、政治思想史の人が使いそうな理念を現実化していたという、驚くべき達成に基づいている。これ以上書いて、その公共空間がどのような支配のもとにあったのかにも触れないと、とんだ日本礼賛論になるので、ここで筆をおく。

船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。近著に『旅する知』(海竜社)を2014年8月2日に発売。サンクトペテルブルグ、ニューヨーク、パリ、ソウル、ケンブリッジ、ロンドンを巡り、今、世の中ではどんな変化が起こっているのか。その変化には実は予兆があったのではないか。そしてその先にはどのような未来が待ち受けているのか。著者が文化人類学者として40年近く地球を旅する中で体感した、20世紀と21世紀をまたぐ、世界の文化と歴史を縦断する旅エッセイ。

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