Photo:MANABU MOROOKA

フジロックの行方

ユートピアの厳しい現状と、音楽シーンの変質

テキスト:
Kunihiro Miki
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Text by 三木邦洋

一時は開催期間中の台風上陸が危惧されたものの、終わってみればほぼ連日快晴に恵まれた『FUJI ROCK FESTIVAL '15』。動員数も11万5千人と、少々不振だった2014年の10万2千人から増加した。 

さて、アーティストたちのステージレポートは専門メディアに一任するとして、2015年の「フジロック」は少し冷静に振り返ってみたい。なぜなら今年のフジロックは、近年の日本における音楽のあり方、聴かれ方の変化、言い方を変えれば、シーンや業界の脆弱化が象徴的に映し出された年だったからだ。今年の動員数の増加は、喜ばしいことではあるが、一方で、無難に「置きにいった」結果という見方もできる。 

もうすぐ20周年を迎えるこのユートピアが今回、変わりつつある日本の音楽シーンの構造、運営陣にとっては厳しい現実と言えるその状況と向き合うため、または回避するために舵を切ったことは、必然とはいえ、今後の運営を左右する分岐点となるはずだ。 

一部のフジロッカーたちは、早い段階から今年のフジロックに不安を抱いていた。集客は見込めそうだがインパクトに欠けるグリーンステージや、エッジの感じられないレッドマーキーのラインナップ。加えて、奥地のオールジャンルステージ「オレンジコート」の廃止。それに伴い初日深夜の『オールナイトフジ』も消滅。 

フジロックのイメージとは相容れない部分のあるEDM系アーティストたちの出演にも、違和感を覚えた人は多かったことだろう。また、ジャムバンドの聖地でありサイケデリック/ヒッピー文化が息づくフィールド・オブ・ヘブンのラインナップもそのカラーが薄まり、例年のような裏テーマ(ジャムバンド、スカ、レゲエ、ソウル、ブルースなど、日ごとに特定のジャンルに統一したラインナップを揃える)に沿った骨太なブッキングも、今年は見受けられなかった。 

もちろん、素晴らしいステージは今年も数多くあったし、主催者側も可能な限りの最善を尽くしてのラインナップだろう。しかし、ブッキングの内情や経緯は与り知らないが、来年以降もこうした傾向が続くとなると、不安は失望に変わるだろう。 

現地に降り立つと、往路のシャトルバスが有料化されていたり、場内のスタッフの数が減っていたり、さらにはデイドリーミング&サイレントブリーズのタイムテーブルがどこにも見当たらない(開催はされていた)。フジロックが対峙している苦境、それは1997年に経験した天災とは異なる、もっと大きな、時流がもたらす類いの試練だ。 

大トリが終わったグリーンステージに鳴り響くジョン・レノンの『Power to the People』。祭典の終演を告げる恒例の風景は相変わらず美しかったが、今年に限っては、同じジョンの曲ならば『Hold On』のほうが相応しかったかもしれない。ユートピアはどこに向かおうとしているのか?偉大なロックンローラーたちは天から見守っているはずだ。「ほかの誰にもできなかったことをやりとげるのさ。がんばれ(Hold On)フジロック……」。 

ラインナップの内容如何に関して、確実に言えることは、音楽マニアのベテランフジロッカーたちが求める「フジらしいラインナップ」を目指すのは、現状、フジロックの運営を経済的な苦境に追いやるだろう、ということだ。『サマーソニック』とは違いフジロックは、マスの方を向いていないラインナップを揃えながらマス規模の客を集めるスタイルをとってきたわけであり、そうした未知の情報が詰め込まれた「雑誌的」なあり方に多くの人が集まる環境を作ることは、日本では年々厳しくなってきている。 

その原因には、カラーが明確な中規模の音楽フェスティバルが数多く生まれたことも影響しているだろうし、なにより、この10年間で音楽業界やリスナーの体質が内向きになっていったことが大きく関係していることは、多くのジャーナリストたちの言葉を借りるまでもなく、明白だ。 

「ガラパゴス化」による国内のシーンや市場の変容と同時に、「洋楽」をとりまく事情も絡めて考えなくてはいけない。世界の大型フェスに目を向けると、ヘッドライナーがコールド・プレイやMUSE、ブラック・キーズ、キングス・オブ・レオン、ケミカル・ブラザース、レディオヘッドといった決まりきった手駒でやりくりされている現状があり、では若手はどういった状態かといえば、例えばレビューサイトなどで注目を集めているフレッシュなアーティストでも、その評価が集客やセールスになかなか反映されない。活動もこじんまりとしてしまい、大きなスケールを獲得するバンドが出てきづらい。 

そうしたなかで、近年再び音楽シーンが熱く盛り上がっているアメリカで開催されている『コーチェラ』などのフェスティバルのラインナップは、新たな才能を積極的に取り上げ、シーンを先導して健全な循環を作り出すのに一役買っていると言えるだろう。仮に日本の若い音楽オタクたちに尋ねたら、イギリスの『グラストンベリー』よりも『コーチェラ』に票が集まるのではないだろうか。 

しかし、音楽ジャーナリストの田中宗一郎も指摘した通り、フジロックが『コーチェラ』のようになれる土壌は日本には用意されていない。「ここ10年、どちらの国(日本とイギリス)も北米のポップ文化のように裾野の広がりを作り上げることのできなかったことの結果/コーチェラのラインナップでは、フジは成り立たない。集客的には散々なものになる。/北米のメディアが、レーベルが、イベンターが、アーティストが、リスナーが共に作り上げてきた文化をこの島国では誰もが新たに作り上げるという努力を怠ってきた。」 

もちろん、フジロックと『コーチェラ』はそもそものコンセプトが異なるので比較するべきではないかもしれない。しかし、こうした問題自体は、誰よりもプロモーター側が肌で感じていることに違いない。ロックフェス、ユースカルチャーはかくあるべしという勢いをラインナップで表明するのは、10年前、20年前とは比べ物にならないほど難しくなっているのだ。なぜ「裾野の広がりを作り上げること」ができなかったのか?今年のフジロックには、そうした根深く複雑な問題が表面化していたように思う。 

海外アーティストに客が集まりづらい今の状況では、旬なアーティストは集客の面で折り合いがつきにくく、円安の影響もあり大物はギャラが高額だ。誠実な姿勢として「今呼ぶべき」アーティストを招聘することのリスクが高まるなかで、アイドルなどの賑やかしに頼ることのない唯一の大型フェスといえるフジロックは、今、不利な要素ばかりに囲まれている状態だ。 

ロックもフォークも、テクノもハウスもジャズもソウルもスカもクンビアも、そこにある等しく光るなにかに目を凝らせと、フジロックはその深い懐から語りかけてきた。賢く巧みにマーケティングされたイベントでは味わえない、コントロールから完全に自由になった音楽とオーディエンスの力は、こんなにも大きく、心を揺さぶるものなのだと気付かせてくれるのがフジロックの本質的な魅力であると信じている。 

確かに、フジロックはかつてのようなゼロからすべてを切り開いてきた先導者としての役目を終えているし、若い世代では音楽を聴くベストな環境を「部屋」と「Youtube」であると考える人も多いのかもしれない。しかし、即物的なエンターテイメントではなく音楽の底知れないエネルギーと輝かしさそのものを伝えてくれるフジロックのような土壌は、決して失ってはいけない。冒頭でも述べたように、来年でフジロックは20周年を迎える。辛い時期を良い形で乗り越え、願わくば、この記事で述べた懸念は杞憂に過ぎなかったと思いたい。

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