TOKYO MUSIC BOX #21 サッシペレレ

テキスト:
Kunihiro Miki
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in collaboration with KKBOX 

サッシペレレ

値段:¥¥

音量:★ 

照度:

ポイント:毎日開催されているサンバ、ボサノバ、MPBのライブ

この一杯:カピリーニャ

定番スポットや老舗バー、注目の新店まで、魅力的なミュージックスポットを、店主、スタッフ、常連客がセレクトしたミュージックプレイリストとともに紹介する連載企画『TOKYO MUSIC BOX』。

シーズン2として今夏から連載再開となる本企画の1軒目に紹介するのは、四ッ谷のブラジリアンレストラン、サッシペレレ。四ッ谷駅から市ヶ谷駅へと向かう大通り沿いの地下に店を構える同店は、1972年オープンの老舗である。当時はブラジルの料理や音楽が一般的にほとんど認知されていない時代だったため、本格的なブラジル料理と生のサンバ、ボサノバライブが楽しめる初めて店として注目を集めた。毎日生演奏が行われるライブレストランという形態の先駆けともなったが、同店に出入りしていた多くの国内外のミュージシャンによって日本におけるブラジル音楽文化の礎が築かれたといっても過言ではない。何を隠そう同店は、日本におけるボサノバアーティストの代名詞である小野リサの実家であり、彼女のミュージシャンとしてのキャリアの出発点なのだ。小野リサの父であり、日本とブラジルを文化的に結んだ功労者であった小野敏郎(2012年逝去)が開き、現在は小野リサの妹里笑が経営を継いでいる同店の歴史を、小野敏郎の妻 小野和子に聞いた。

ー1958年にご家族でブラジルに渡られたとのことですが。

小野:「ブラジルは(商売をするには)いいぞ」と友人からの進言があり、(敏郎は)決断したようです。住み始めた当時はサンバなどのカーニバルの音楽やボレロ風のものが主流で、ボサノバは少したってから現れました。

ー敏郎さんが開店し、サンパウロで15年間営業したというクラブICHIBANがサッシペレレの原型になっていると伺っていますが、当時、現地でネットワークを作るのは大変なことだったのではないでしょうか。

小野:日系人が多くいましたから、なんとかなったんじゃないですかね。元々、音楽が大好きな人だったのでね。生のバンドを入れた店がやりたいというのが初めからあって。地道に地元のミュージシャンに声をかけていって集めていったんだと思いますよ。日曜日以外は毎日演奏が入っていましたね。料理に関しても、現地でスタッフを雇って。そういえば、渡辺貞夫さんが来てくれたことがあったわね。うちのお店で現地のミュージシャンとセッションするうちにブラジル音楽にハマったみたい。

ライブ盤『ナイト・ウィズ・ストリングス』より、ボサノバに傾倒した渡辺貞夫が1967年に発表し日本のボサノバブームに火をつけた『ジャズ&ボッサ』にも収録されている『イン・ザ・ウィ・スモール・アワーズ 』

ー日本に戻ってもブラジルのお店をやるという敏郎さんの考えに、奥さんも賛成だったのですか。

小野:私は大人しい女でしたから(笑)。四ッ谷を選んだのは、このビルを経営している知り合いから、ここを使っていいよという話が主人に行ったから。元々は穴蔵のバーみたいだった場所で、当時は今の半分くらいの広さだったのを段々広げていったのです。

ー当時はまだ日本人はブラジルの音楽や料理について何も知らない状況だったと思うのですが。

小野:そうですね。ブラジルと言われても、カーニバルがあるらしい、コーヒーが採れるらしい程度で。今のように色々な情報が入ってくることはありませんでしたから。料理に使う食材も調達できないので、代用品を使ったり、現地から送ってもらったり。コックさんも現地から呼んで、雇って。ミュージシャンは現地で契約して、日本に来てもらってというかたちで。オープニングにはフローラ・プリムやアイアート・モレイラが来てくれました。

フローラ・プリムのライブ盤『500 Miles High』より、フローラが在籍したチック・コリアとスタンリー・クラークによるバンド、リターン・トゥ・フォーエヴァーの楽曲『500 Miles High』

フローラ・プリムの夫であるパーカッショニスト、アイアート・モレイラと名コンポーザーのDEODATOが中心となり、フローラ・プリムら強力なメンバーを従えたバンドDEODATO-AIRTOのライブ盤『IN CONCERT』より『Spirit Of Summer』


ー『浅草サンバカーニバル』もまだないころですものね。

小野:『浅草サンバカーニバル』は最初、発案者の伴淳三郎さん(昭和のコメディアン、俳優)から主人に話がきて、色々手伝っていたんですよ。現地からミュージシャンを呼んだり、日本にいたバンドマンとかを集めたり。

ー様々なかたちで貢献されていたのですね。サッシペレレのステージには有名なブラジルのミュージシャンも多く出演してきたかと思いますが、思い出深いアーティストは誰ですか。

小野:ワルター・ワンダレイが来たときは盛況で、主人いわく四ッ谷駅まで行列ができたなんて騒いでましたね。それが37年くらい前かしら。ワルターは何度も来てくれて、夜中まで演奏してくれた。

オルガン奏者のワルター・ワンダレイの名盤『Summer Samba』より『Rain』

ーサッシペレレのステージで育っていった日本人のミュージシャンというと、どういった方がいるのでしょうか。

小野:現在日本で活躍している50代以上のミュージシャンは、ほとんどがうちに出ていたと思います。ギタリストの佐藤正美さんは、学生のころから出ていました。主人が買って贈ったギターをずっと使ってくれていましたね。

伝説のラテンバンド「カリオカ」や、長谷川きよしとの共演などでの活躍で知られる名ギタリスト佐藤正美。彼の1999年にリリースしたオリジナルアルバム『Air』より『散歩道』

あとは、中村善郎さんもよく出ていました。

ピエール・バルーが「ジョアン・ジルベルトを彷彿とさせる」と歌った、日本を代表するボサノバギタリスト中村善郎。『A History Of Bossa Nova, Vol.1』より、ドリヴァル・カイミの楽曲『Saudade da Bahia』を中村のアレンジで演奏した『バイーアの郷愁』

ー小野リサさんも、そうした環境に刺激されてミュージシャンを志すようになったのでしょうか。

小野:音楽が好きでしたからね。あと、ブラジル語を忘れたくないと言っていました。音楽は、主人が教えたわけでもなく、独学で手をつけていたみたい。ブラジル音楽のレコードもずっと聴いてましたね。

ーご主人が一番こだわってらっしゃったことは、何でしょうか。

小野:主人は、音楽ももちろんだけど、食いしん坊だったから食事に一番こだわっていました。『フェイジョン』(塩味の豆の煮込み料理)なんて、当時は全然調達できないから、現地から仕入れたり。情熱のある人でしたから。

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