野村萬斎

インタビュー:野村萬斎

「究極的には古典こそが新しいということを知っていただきたい」

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Text by 高橋彩子

ある時は占術・呪術を使いこなす怜悧な陰陽師(映画『陰陽師』)、またある時は、智も仁も勇もないが人々に愛されるでくのぼう(映画『のぼうの城』)。多彩な顔を見せる野村萬斎だが、その根幹にあるのは、14世紀に確立され、現存する最古の演劇であり、ユネスコの世界無形文化遺産でもある狂言だ。祖父・故六世野村万蔵及び父・野村万作に師事し、3歳で初舞台を踏んだ彼は、その600年の伝統を引き継ぐ。「(島国である)日本を訪れる方は、奇異な国だと思われるのではないでしょうか。大陸ではせめぎ合いがあり、前の民族の歴史を否定して発展してきたので、記録は残っていても、どのように上演されたかがわからない。ギリシャ悲劇などがそうですよね。その意味で、ずっと続いて来た狂言が、演劇的に最古だと言われるのでしょう」。

とは言え、昔と寸分違わぬことをしているわけではない。「文化は生き物と一緒。時代に適応して変わってきました」と萬斎は言う。これは狂言が今も直面する課題につながるだろう。時代の変化の中でも変えたくない、狂言のコアとは何か? 英語の読者も多いタイムアウト東京のために、彼は、28歳のころイギリス留学で磨いた英語も交えながら語ってくれた。「シェイクスピアの“thou”や“thy”のように、狂言にも今では使わない言葉が出て来たり、韻を踏むなどの文語的な表現が使われたりします。そのことが多少取っつきにくさを催すわけですが、では言葉を分かり易くすればいいのかというと、それでは文章の音律が崩れる可能性がある。シェイクスピアの弱強5歩格と同じで、狂言にも独自の朗唱術があり、これを実現するために古典的なスタイルが必要なわけです。どの国でもそうであるように、言葉は情報を伝えるものですが、そこには音が付随する。日本語本来の音の面白さと動きの様式美は、我々がこだわるアイデンティティです」。

その魅力を、古来の日本語になじみのない外国人や若者にどう伝えていくかは悩みどころ。例えば狂言の冒頭の言葉として有名な「このあたりの者でござる」。「英語では“I am the residence of this house”と訳されることが多いですが、このあたりとはもっと広い意味だから、最近、私は“I am a local here”としています。しかし、主語が曖昧なのも日本語特有で、実際には“We are~”かもしれないし、もっと言えば“This is~”とするべきかもしれない。つまり、出て来た人物は皆様と同じ人間であり、今生きているあなたを象徴する存在である、というニュアンスなのだと思います。要するに、鏡の構造ですね」。シェイクスピアも『ハムレット』の中で、芝居が自然を映す鏡であるという演劇観を示している。「狂言が複雑な構造ではなく単純な鏡だからこそ、生きながらえたと言えるでしょう。話し言葉なのでだいたい分かりますし、海外の方でも、あらすじを読んでいただけば、シチュエーションから感じ取れる曲もあります」。

喜劇的な要素が強い狂言は、海外公演でも観客を沸かせる。「笑いが人と人をつなぐ有効手段であることは、海外公演でもつくづく感じます」と萬斎もうなずく。と同時に、萬斎やその父で人間国宝である万作の狂言の笑いには、ただ楽しいだけでなく、気品が漂うのも特長だ。「父は、狂言は、喜劇でありながらも美しい、面白い、おかしいの順であるべきだと申しております。これは他者との関係・距離感に関係しますね。美は、もしかしたらひとりでもなし得るかもしれない。つまり、一人称。面白さは、もっとコミュニケートしている感じで、二人称。おかしさというのは、観客の客観的な視点を巻き込んだ三人称。ですが、究極のアートとは美であり、それは生きていることの煌めきの最高峰。恐らく、観客が触れられないほど崇高なものなのです」。

600年の歳月の中で、型や名前を継承してきた狂言の世界は奥深い。「若さだけでなく老練化に禅的な道が開けているのが、狂言の日本的なところでしょうね。型とは、レンズのようなもの。磨けば磨くほど色々な物事が見えてきます。十代の若者の肉体はきれいに決まっているけれども、80歳を過ぎたおじいちゃんが、ひとたび動くと、まったく違うものに見える。若者は様式が様式で終わっていたり、または様式に対してエネルギーや勢いがあったりするのに対して、80歳過ぎの人は、速く動かなくても遅さにすごく意味があるとか大きな気を感じるとか、そういうふうに経験値が反映して、いわば人生が表れるわけですね。古雅な言い方をすれば、満開の桜を見るのも良いが、禅寺に行って、岩に苔がむしていたり、枯れ木寸前の老木に1~2輪咲いていたりするのを見るのも味わい深い。世阿弥はそれを最高位の幽玄と呼ぶわけです」。

子ども向け番組『にほんごであそぼ』では狂言の魅力を噛み砕いてみせ、芸術監督を務める世田谷パブリックシアターでは古典芸能と現代演劇の融合を目指す『現代能楽集』シリーズを推進するなど、狂言の普及・浸透に尽力する萬斎が語る、狂言の深遠さ。改めて、伝統芸能という「ハイアート」の敷居をどう考えているのか訊ねた。「敷居は高過ぎてはいけないけれど、下げ過ぎて迎合してもいけない。観客との緊張関係は保ちたいですね。特に古典は分かり易く現代化すればいいというものではないので、レベルの高さや美意識の規範を大切にしながら、古い芸能でありつつ地平は今と繋がっていること、究極的には古典こそが新しいということを、知っていただきたいのです。観客に敷居を越えていただく、あるいは我々が敷居の高さは保ったまま皆さんの方にいる、という形を目指して、私は活動しています」。

そうした活動の一環として、この秋、萬斎は東京都現代美術館で開催される『東京アートミーティング(第5回)「新たな系譜学をもとめて-跳躍/痕跡/身体」』の総合アドバイザーを務め、自身も現代美術作家・高谷史郎とのコラボレーションで『三番叟』と『ボレロ』を上演する。「神がかる、すなわちトランスする肉体のハイアートである『三番叟』と、コンテンポラリーアートとのぶつかり合いになります。狂言の中で一番神聖視されている冒すべからざる曲ですから、こちらはそのままやり、高谷さんのアートとの闘い、融合、あるいは解体を迎えることになるでしょう。この『三番叟』と構造が似ていると父が指摘していたのが、ラヴェルの『ボレロ』。実際、繰り返しが多く、螺旋状に盛り上がって行くところなどが共通します。ですから近年、『三番叟』の変化形として上演を重ねています。これらの作品にある鎮魂性、大地への祈念といった根源的なものへの回帰、そして再誕生は、今の世の中には重要なのではないでしょうか。それこそ現美(東京都現代美術館)に、現代の岩戸が出現すればと思います」。

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