ロングインタビュー:スクエアプッシャー

ハードからソフトへ。楽器とテクノロジーの狭間に身を置き続けること

テキスト:
Kunihiro Miki
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「つまり、手っ取り早いコンピューターって技術が存在する、その実情に対して、ほとんどもうゾッとさせられることがあるっていう。でも、それと同時に僕はテクノロジーの側面に興味をそそられずにいられないわけで」
彼の音の中にある皮肉めいたニュアンスは、こうした自己矛盾を俯瞰することからくるのだろうか。血の通った「フィジカルな表現」と、そうでないもの の境を定義するのは、時代を追うごとに難しくなる。肉体的な手法によるテクノロジカルな表現もあるだろうし、100%テクノロジーでフィジカルな表現を実 現するというのは、現代ではひとつ普遍的、宿命的な命題といえる。スクエアプッシャーは、テクノ黎明期だった20年以上前からそうしたジレンマと正面から 対峙し、両極を行き来する激しいエネルギーの中で作品を産み出してきた。1996年の『Feed Me Weird Things』から新作『Damogen Furies』までで、アルバムとシングルを合わせて彼がリリースした作品の数は30作以上になる。そのディスコグラフィーは、トレンドから一定の距離を 置いたところで、着実に、時には思いもしない方向に、歩みを進めてきた。絶え間なく湧き出るアイデアの源泉にあるのは、手の届かない、しかし確実に彼の頭 の中で鳴っている、彼だけの理想のサウンドだ。今回は、期せずして1万字を超えるロングインタビューとなり、新作における彼の境地や、それに至る哲学、そ して「レコードを売って生きていること」までを、丁寧に語ってくれた。

『Damogen Furies』はライブの文脈で聴かれるべきものだ


ー初めまして。まずは5月の来日公演を楽しみしています。

うんうん。

ー特に京都の森の中であなたのパフォーマンスが見ることができるのは

ああ、そうなんだ?

ー『The Star Festival』という、森の中で開催されるフェスなんです。

おー、そりゃグレイトだ。

ーどのようなライブになるのか想像がつかなくて楽しみです。

(笑)森かぁ、アメイジング!

ー今回も視覚的な演出を行うのでしょうか。

うん、やるよ。新作の音楽向けに特別にデザインした、そういうヴィジュアルプレゼンテーションを用意してる。

通訳:そのライブですが、実は私は先だってロンドン公演を見せていただいたんですけど、あれらのビデオ/視覚要素はあなた自身がコントロールしているんですか?それとも別にビデオアーティストがいるのでしょうか。

基本的にどういうセットアップなのかと言えば、僕がステージで生み出す音楽とビデオイメージを作り出す機材とを同期させてあるんだよ。だから、その 場で生まれる音楽、生で演奏される音楽そのものがイメージにも影響を与える、と。というわけで、ライブの場における音楽面での出来事と視覚面で起きること との間には繫がりがあるんだよ。そう……うん、僕が音楽面でやることが映写されるイメージに大きく作用するってことだし、そうだね、その意味では「コント ロールしている」ってことになるんだろうね。



ー新作の『Damogen Furies』を前作『Ufabulum』と並べて聴くと、エレクトロニックサウンドに終始しているという点は共通していますが、全体的な作風としては対 照的な印象を受けました。前作はメランコリックでドラマチックで、サウンド的にも同時代のクラブミュージックと呼応する部分がありましたが、今作は荒々し く皮肉めいていて、それでいてテンションの高い雰囲気で、サウンドはより原始的になっています。

ああ、なるほどね。

ーこの作風の変化について教えていただきたいのですが、今回の新作の制作期間中は、どのような生活を送っていましたか?

クハハハハッ!

ー例えばなにか習慣の変化や、食生活や性生活が影響を与えたことなどがあるのでしょうか。

(苦笑)参ったな〜、マジかい?そうか……だから、作風の変化が僕のアティテュードだったり、あるいは日常生活の変化と関係したものなのか?ってこ とだよね。だけどまあ、まず大雑把に答えさせてもらえば、その答えは「ノー」。これといった大きな変化は特になかったよ……っていうか、そもそもその質問 に関しては「そこまで」ってことにさせてもらいたいけどね。ってのも自分の食生活だとかプライベートライフについて話すつもりは毛頭ないし。僕はインタ ビューの場でそういうことを語ったりしないし、んー、とにかくこう、「そういう話をするのは正しくないだろう」って思えるんだよ。 そうは言っても、自分から見て「これはデカいぞ」と思えるような、そういうシフトチェンジが自分の身の上に起きた時期だったとは思わないけどね。

ーなるほど。

ただ……これは自分がレコードをリリースするときによく起きるんだけど、その作品を振り返ってみて、特に発表された直後に多いんだけど、僕はその作 品をもっともネガティヴに見つめ直すんだよね。要するに、そのレコードの持つ欠点だの失敗した面をすべてあげつらって考るっていう。で、 『Ufabulum』を出したあとで自分のなかに残ったのが、「なにかが欠けている」って感覚でね。そのひとつとして、なんというか、自然さの感覚が欠け ている気がしたんだよ。で、これはコンポーザーとしてではなく、あくまで僕が『Ufabulum』にいちリスナーとして接した際に抱いた感覚なんだけど、 あの作品はかなり……非常に、非常に緻密にプランニングされたものという感じがしたし、かつサウンド面において、音の美意識という意味で一定のレベルの洗 練を持つ作品だな、そう思えた。それもあって、自分はもっと生々しいサウンドを持つ、そういった音楽を追究することに熱心になったという。だけど、そこか ら、僕は「ライブで演奏される」という条件、根本的にはそれを志向するような音楽を作ることへと興味を変えていったわけだよね。で、『Ufabulum』 はホームリスニング向けレコードとしての性質とライブ会場で聴く音楽、その中間のバランスを持つ作品と言っていいと思うんだ。対してこのレコードでの僕の 意図、なによりも第1の焦点になるのは、これはライブ会場で聴かれるべき音楽、ライブの文脈で聴かれるべきものだ、ということで。というわけで、必然的に そのポイントが作品にも影響を及ぼすことになった、と。そのギアチェンジが、この作品の聞こえ方を大きく変化させることになったんだと思うな。

ー機材的にはなにかシステムの入れ替えがあったりということはありましたか?

ああ、そこは前作とがらっと変えたね。完全に違うセットアップやシステムを使った。『Ufabulum』は大きなミキシングコンソールを使って作っ たし、シンセサイザーも『CS-80』のほか、ハードウェアシンセを色々と使った。それらのハードウェアシンセを使うのが、あの作品の音楽を書いていた時 点では適している、僕にはそう思えたわけだ。ところが、このアルバム、『Damogen Furies』は、すべてをコンピューター上のソフトウェアセットアップで作った。全曲がこのソフトウェアシステムだけを使って作られているっていう。そ のソフトウェアは僕自身が作ったもので……そうだね、その初期ヴァージョン、一部はかれこれ10年以上前から取り組んできたものだけど、このソフトウェア のみを使って丸々1枚レコードを作ったのは今回が初になるんだ。だから、作品をモノにする技術的な方法という意味で2枚の間には大きな違いがあるわけ。だ けど、そうやって違いが生じたのもまた、『Damogen Furies』に集められたマテリアルというのは、去年僕が取り組んでいたもっと大きな音楽ピース群から引っ張ってきたものなんだよね。で、それらの音楽 作品群はもともと「ライブで演奏される音楽」って文脈の下に作られたものだったし、その要請に対応する形で、レコーディングに用いたテクニックもまた、 『Ufabulum』の時とは違い、よりライブの場に移し替えやすいものになった、と。というのも、このアルバムはライブをやるときとほぼ同じセットアッ プをスタジオの中に組んで、それでレコーディングしたからね。だから、これはどこでだって組める柔軟なセットアップということだし、それこそホテルの一室 でもどこでも、自分の持って行きたいところへ運搬が可能なシステムなんだよ。結局のところはコンピューターという「箱」に入ったソフトウェアなんだし、い くつものハードウェアシンセ群を移動させるのとは違う。だから多くの面で、異なる意匠の下に、異なるセットアップで作られたレコードってことになるね。

ー今回のアルバムについては、恐らく主にアグレッシブなアプローチがみられたためだと思いますが、「これぞスクエアプッシャーだ」というような評判も上がっています。

ああ、うんうん。

ーあなた自身は、自分に基本形や原点のようなものがあると思いますか?あるとすれば、それはどのような形なのでしょうか。

(即座に)それは、ないに越したことはないね!ってのも、そういった「これぞスクエアプッシャーのサウンド」みたいな概念ってのは、僕からすれば、 自分がもっとも苦手とする、音楽産業の持つひとつの性癖だ、という。それは、基本的にはそうやって複雑な面を持つひとりの人間、アーティストをある形や典 型へ、「ブランド」へと凝縮しようって話なわけでさ。で、そのブランドというのは数個のセンテンスで手っ取り早く説明がつくような、しかもそのアーティス トの代表的な数曲で代弁できるもの、と。そうした考え方というのは、僕にとっては生きていて変化していく人間に対してふさわしくない、そういうものに映 る。たとえば品物としての性質がある程度一定なもの、マーガリンだのピーナツバターといったスーパーマーケットの棚に並んでる「商品」になら当てはめても いい概念だろうけど、もっと複雑な「個人/人格」という存在にはふさわしくないよ。

で、そういった自らのブランド性だったり、あるいは「これが自分の典型的なサウンドだ」なんてことを真剣に受け止めているようなアーティストってのはみん な、ほんと、深刻な問題を抱えてると僕は思うね。というのも、それは人間という存在の持つ根源的な性向、すなわち発展や変化の逆をいくものだから。いや、 どちらかと言えば、僕たち人間に備わったキャラクタ―というのは「変化」であって、「静止状態」ではないってことかな。だから、たとえ僕たちがじっと変わ らずに静止状態を保とうとしたって、それは不可能なわけ。僕たちはいずれにせよ変化するんだし、刻々と歳をとっているのはもちろんのこと、自分の持つ考え にしたって、ほかからの影響を受けて日によって変わったりもする。で、僕からすれば、そうした様々な変化のプロセスと細かく波長を合わせながら活動するこ と、それがコンポーザーとしてのもっともヘルシーなあり方なんだよね。というわけで、なんらかの「これがスクエアプッシャーだ」みたいな概念、核になるス クエアプッシャーの原型みたいなものが存在するって考え方そのものが、今言ったようなこととは完全に相容れないものだ、と。 そうは言っても、まあ、仮に「クラシックなスクエアプッシャーのサウンド」ってものがあったとして、僕は最大限の努力を尽くしてそれを振り払おうとしてき たわけ。ただ、そうは言ってもやっぱり、僕にはそれを拭い去り切れてなかったんだろうね。僕自身はそういった「スクエアプッシャーらしいサウンド」みたい な考え方は大嫌いだし、そもそもそんなものが存在するとも信じちゃいないんだよ。ただ、人々ってのは……僕が思うもっともありがちなケースというのは、僕 のキャリアの初期に生じたスクエアプッシャーのイメージ、そのいくつかが「スクエアプッシャーらしさ」ってものと呼応している、そういうことなんじゃない かと。キャリアの始まりの頃にやっていたことやそこで生まれたアイデアが、ブランド、あるいはそれを定義する原型として受け止められるってことだね。

ただ、忘れてもらっちゃ困るんだけど、僕が最初のアルバムをリリースしたのは20歳のときとはいえ、その時点までで僕は既にソングライティングを10年間 やってきていたんだよ。要するに、アルバムデビュー以前の段階で僕はいくつもの変化をくぐってきたってことだし、1枚目のアルバムを作った頃にやっていた ことというのも、そうした自分の遂げていた変化の形のひとつ、その顕われに過ぎないっていう。もちろんそこには当時の僕が関心を抱いていた事柄が表されて いるわけだし、僕の作るレコードってのはそういうもので、その時々で自分にとって大切だと思える物事を代弁するものなんだ。ただ、たとえどこかの時点で自 分が関心を持っていたからといって、それらがその後も常に僕にとって重要な関心事であり続ける、そういうわけではいんだよ。いつかまたそれらが大事だと思 える時がくる、そこに戻っていくってこともあれば、また逆にすっかり放棄してしまい、二度とそれらについてケアしたり考えることもない、なんてこともあ る。だから、うん、「スクエアプッシャーらしさ」みたいな概念ってのは、ほんと、聴き手やジャーナリストたち、音楽評論家たちの思いつき次第だっていう。 ただし、それらの様々な概念に僕が共感できるかと言えば、それはまったくない。それらの概念と僕は繫がっちゃいないし、どうでもいい話だと思ってる。僕は ステレオタイプに沿って自分の人生を生きちゃいないからね

僕のなかには、良いプレイヤーになるために人生を捧げる、みたいな部分がある


ー私は、あなたの創作の原点には、フィジカルな音楽への厚い信仰心と、自身のDTM向きで自己完結型の気質とのジレンマのなかでの葛藤が、そのまま独創的な作品を産み出している、ということがあると思っていて。

なるほどね。それは納得のいく考え方だし、とても知的な観察だと思う。ってのも、これまでも色んなインタビューで話してきたけど、僕はよく、ふたつ の場所の間を振り子みたいに行き来しているような気がしていてね。そのひとつは楽器を演奏する際のテクニックや演奏能力に関わるエリアだし、もうひとつと いうのは……ほとんどもう、そのアンチテーゼと言ってもいいことで。だから、楽器を演奏するための努力を一切放棄するっていうのか、演奏を習得するために 費やす時間や労力を傾ける、そういったすべてを捨て去って、その代わりにテクノロジーを通じて入手可能なあらゆる「近道」を使うっていう。で、僕はまあ、 これはついさっき話したこと、自分は絶対にステレオタイプを作り出そうとはしないし、そうではなくて僕は常に前に進もうとする、その時その時で自分にとっ て意義があると思えることをやっていくだけだ、って話と矛盾するかもしれないよね。ただ、それでもこのふたつの方向性にまつわる様々な考えというのは、僕 がやるあらゆること、その背後に横たわっているんだよ。

ーなるほど。

だからといって、それがステレオタイプな音へと繫がるのか?と言えば、それはまた別の話であって。要するに、僕のアイデアの基盤というか、そうでな いとしても、自分がある音楽を形にする際の技術的な手法の発想の根本にそれらの2つがある、と。で、そのふたつの間の対話というのは、ごく大雑把に言えば 「生のギターで作るか、あるいはコンピューターで作るか」ってことになるわけだけど、僕が思うに、その2つの世界の間には対立があるんだよね。っていうの も、優れたギター奏者になるためには、それこそ人生を捧げる必要がある。何年も時間をかけて練習を重ね、学び続けることで身体技能、演奏テクニックを発展 させていくわけだよね。ところがその一方で、コンピューターを使えばこれといったトレーニングを受けなくたって済むし、素人でもすぐ音楽作りに取り組め る。で、僕にはそれが……だから、僕のなかにはあるひとつの楽器をちゃんと演奏できるようになる、良いプレイヤーになるために自分の人生を捧げる、みたい な部分があるわけで、その意味ではそういう状況、つまり、手っ取り早いコンピューターって技術が存在する、その実情に対して、ほとんどもうゾッとさせられ ることがあるっていう。でも、それと同時に僕はテクノロジーの側面に興味をそそられずにいられないわけで。そのふたつがぶつかり合う闘いの場に身を置い て、さて、そこでどんなことが起きるのか見てみたいって思いがあるんだよね。だからある意味僕は、楽器の演奏家であること、それが今後も意義を持ち続ける のかどうかってことに興味があるんだろうね。

果たしてそれは、未来においても有効な音楽のひとつの勢力であり続けるんだろうか?それとも、いずれ無用の長物として廃れていく運命にあるのか?と。でま あ、この点については人それぞれに意見が分かれるだろうけど、僕はとにかく、リアルタイムでこのテーマを掘り下げていこうとしてるっていう。というのも、 まさに今言ったような問いかけを発する、そういう音楽を僕はプロデュースしているわけだから。「我々は演奏技術を犠牲にしてまでテクノロジーによる近道の 方を選ぶだろうか?」、あるいは「物事を楽にするために、我々はこの人間が培ってきたスペシャルな技能を捨て去ってしまうんだろうか?」、でまあ、今とい うのは昔と違って、音楽を作りたい!と思い立ったキッズの前に広がるチョイスの数々ってのは、20年前、いや、それこそ僕が音楽作りを始めた30年前に較 べたら、本当に段違いなわけ。初めて音楽作りに取り組んだ頃、僕にはお金もなければ楽器に触る機会もないって具合で、だから最初のマイギターを買うお金を 貯めるために、かなり必死に働いたんだよ。ところが今の若い子たちっていうのは、それこそコンピューターを手に入れたその日のうちに、大金をはたいて楽器 を買うなんてこともなしに、非常に高度なスタジオソフトウェアを使って音楽作りをこなすようになるっていう。今、僕たちが日々経験しているシチュエーショ ンってのはすごいスピードで変化しているわけだし、だから僕も、とにかく自分なりにそれらの変化を理解しようとしているだけなんだよ。それでも思うのは、 もしも自分がそのどちらかを捨ててしまったら……たとえば生の楽器奏者の役に徹することにしてテクノロジーは一切忘れてしまう、あるいは逆に生楽器を排除 してテクノロジーだけで音楽を作ることにする、そういう風にどちらか一方だけを選んでしまったら、この二律背反な状況に対して興味深い意見を発することが できる、その自分に備わったユニークな能力を犠牲にすることになるんじゃないか、と。

ーそれで、あなたは、2008年の『Just a Souvenir』から2010年の『Shobaleader One: d'Demonstrator 』、2014年の『Music For Robots』では、架空や現実を問わずバンド形式の音楽を製作していましたが、前作と今作では再び純然なエレクトロニックミュージックに戻って来まし た。これは、フィジカルな要素をより自在に取り込んだり、操れるようになったという自信や手応えが、あなたのなかに生まれたからなのでしょうか。

そうかもしれないね。でも、『Damogen Furies』にフィジカルな要素は一切ないんだよ。あれはもう、とにかくシークエンサーのステップ打ち込みで作っていったというか、あれほど肉体性から ほど遠い作りもないだろうってもので。その意味では、ほぼ完全にバーチャルな作品と言えるね。ってのも一切演奏はなし、生の楽器演奏なんかもまったく使っ ていなくて。だから、僕が音楽を作る際に用いる技術的な手段という意味では、この作品は「楽器を演奏する」って方法の、最も対極に位置するものじゃないか な。とは言っても、僕がこの作品でやろうとしたことっていうのは、その質問の核心もそこなんだろうけど、自分が楽器を使ってその音楽を演奏するときのよう に音楽をプログラムするってことでね。だから僕は、自分がギターを弾くときみたいにできる限り闊達に、敏速に、かつ迷いなしに考えようとしたんだ。っての も、ギターで即興演奏をやるときは一瞬で決断を下さないといけなくて。あれこれ考え込む余裕なんてないし、秒単位で瞬時に何をプレイするか決めていかなく ちゃならないんだよ。で、エレクトロニックミュージックを作る際に、概して僕がそこに盛り込もうとするディテールの膨大な量を考えても、僕はパッ!パッ! と即断していかなくちゃいけないっていう。そうしないと、ひとつの音楽ピースを作るだけでも半年かかることになる。どっかり座り込んで「ああでもない、こ うでもない……いやこうすべきか?」と熟考してしまって、アルバムを1枚完成させるのに何年もかかる、なんてことになりかねない。で、そうやって長い時間 をかけたからといってより良い作品になるとは思わないし、むしろそうやって考え続けて製作プロセスが伸びると、やっていて楽しいなって感覚、あるいは自然 に生まれたような感覚の一部を失うことになるんじゃないか、と。だから僕は、音楽をステップタイムで打ち込むというテクノロジー的な手法に生楽器でインプ ロ演奏をやるときと同じメンタリティを当てはめるという、それにほぼ近いことをやってみるのにとても興味があったわけだ。

ジャンルや新しい音楽と古い音楽との境界線といったものはすべて、人為的なものに思える

ー色彩的なイメージがあなたにアイデアを与えることはありますか?

ああ、あるね。うん……でも、それは双方向のプロセスでもあってね。だから、時に写真やイメージや色彩、抽象的な幾何学模様なんかから音楽のアイデ アを受け取ることもあるし、その逆もありだと。だから、音楽によってイメージなり色彩が浮かぶこともあるんだよ。その意味で、双方向のプロセスって感じが するね。

ーイメージと音楽は内的に繫がっているってことですね。

そう。だから、そのふたつはコネクトしているし、でもその結びつきは理性的な分析を越えた深いレベルで行われているっていう。ってのも、「イメージ ⇔音」の連想というのは自然にふっと起こるものだからね。まあ、ある音楽ピースからどんな色彩やイメージが生まれるのか、自分にそこまで保証はできないと はいえ、それでもその側面はぜひ探っていきたいと思っているし……僕の音楽をよく知ってる人、ファンならこれは気づいてると思うけど、僕はたまに作品のタ イトルに色彩の名前をつけることがあってね。で、普通それをやる時というのは、その音楽が僕に特定の色彩(タイトルに使われた色の名前)を喚起させるもの だからなんだよ。とは言っても、そうした音楽と色彩のシンクロが起きるのは偶然ってことが多くて、たとえば僕が「緑」を感じるような音楽を作ろうとして も、それを実現するのは楽じゃないっていう。そうではなくてこう、もっと自然発生的に浮かび上がってくる感覚なんだよね、音と色彩のコネクションっていう のは。

ーわかりました。最近はどんな音楽を聴いていますか?

あーんと、特に思い浮かばないなぁ。うーん、いや、本当に……(少し考え込む)うん、「これ」といって頭に浮かぶような作品はないんだよ、マジに。

ーでは、テレビや映画は見ますか?最近のあなたのお気に入りの番組や映画作品など。

ああ、最近観たものでひとつと言えば、チェコのアニメーター、ヤン・シュヴァンクマイエルの短編映画集があるね。

ずいぶん古い作品ですね。

うん。あれは、割りと最近自分が観て、エンジョイできて、かつ刺激を受けた。そう感じるような作品だったと思うよ。

ーなるほど。新しいリズムや新しいジャンルの音楽から刺激を受けたりすることはありますか?

いや、それも特にないね。だからさ、もちろん自分はなにも、今の世の中で起きてる色んな音楽、それを聴くのに反対の立場だってわけじゃないんだよ。 ただ、僕がよく思うのは、なんであれ「新しい音楽」、あるいは「新しいジャンル」って風に命名されてパッケージされたものっていうのは……(ため息をつ き、しばし言い淀む)僕からしてみると、ジャンル間の線引きや新しい音楽と古い音楽との間の境界線といったものはすべて、人為的なものに思える。「新しい 音楽」とされているものが、実は非常に薄い皮を被っただけの昔の音楽の焼き直しに過ぎない、なんてことはしょっちゅうだしね。ジャンルとジャンルの違いに したって、リズムに置かれた強調点のごくわずかな差異だけ、とかさ。で、音楽の基本ノウハウ、あるいはそれがどんな風に作られたかって観点から音楽を眺め てみると、僕からすれば差が足りない、いちジャンルとして他と区別するほどの大きな違いは正直感じられないっていう。

とにかく、それらの境界線っていうのは、純粋に音楽的な境界というよりももっと商業的な思惑だったり、あるいは社会的な利害関係に基づくもののように思え る。だから、それって基本的には「彼はプロダクト(商品)です」と言ってるようなものだし、「彼は”新しい”プロダクトだから、好きになってオーケーです よ」ってことだよね。ところが、実はそうやって「これは新しい!」と言ってるのはマーケティングをやってる連中たちなんだし、実際にその音楽を骨子まで剥 き出しにしてよくよく眺めてみれば、音楽的に「新しい」ところなんてなにひとつない。だから、これはもちろん、新しい音楽の中に面白いと思えるものが僕に はまったくない、そういう意味ではないんだよ。ただ、僕が感じるのは、自分のなかには探究してみたいアイデアが山ほどあるわけだし、ほかの人々の持ってる 色んなアイデアに自分が影響されるようになる前に、まずはそっち、自前のアイデアを先に掘り下げていきたいっていう。だから、僕は集中力を削がれたくない んだ。自分自身のイマジネーションが豊かなうちに、できるだけ多くを作り出したい。

ーほかからインスピレーションを探すというよりも、自分自身の内部に目を向ける、と。

そうだね。それに、僕は別にほかのミュージシャンだったり、あるいはなにかのジャンルと連携を結ぼうって必要性も感じないし。そういう意味でほかの 人々と同じひとつのグループに分類されたって、自分にとって得になることはひとつもないな、そう思う。で、たまに音楽シーンが無理にくっつけられることも あって、そこには「これらのシーンは共通の目的があるゆえにひとつになった」なんて感覚があるわけだけど、僕にはそうは思えなくて……僕からすればそれっ てただ、音楽シーンの選択肢をまたひとつ封じて、そのシーンの孕んでいた可能性を不法なものにするための別の言い方だろってふうに聞こえる。ってのも、 シーンというのは得てして「そこで許容されないのは何か」によって自らを定義するものだけど、僕には無理だな。「これをやるのは、このシーンでは許されま せん」って観点から音楽を考えることなんてできないし、うん、僕は何もかも許される、何でもありってのを望むから。

人々がもっと批評的、かつ覚醒して意識的になる、その助けになればいいなと思う

ー昔の話になりますが、20年ほど前のインタビューであなたは、「自分のレコードが売り上げチャートに上がらないし、仮に俺の音楽 がメインストリームよりも売れたとしてら、それはそれで自分の音楽が嫌になっちゃうんじゃないか」と語っていましたね。当時と今ではずいぶん環境が変わり ました。あなたのレコードは、各国でチャートインしています。これについてはなにか違和感のようなものは感じていますか?

いいや、それはないな。でまあ、過去に自分がそういう発言をしたんだとしても、それは今の自分にとっては賛成しかねる意見だ、そう言わざるを得な い。ってのも僕からすれば、もしもあるレコードの売り上げが良くて商業的な成功作になったとしても、それがその作品のクオリティそのものを示唆する指針に はならない、という。クソみたいな駄作なのに売れるってこともあるんだし、古典的名作ってこともある。救いようのないひどい作品かもしれないし……うん、 どんな作品だってありなんだよ。要するに、その作品のコマーシャル面での成功と作品そのものの質、その間に直接的な関連はないってこと。だから、考えてご らんよ。実に素晴らしい内容なのにほとんどの人間に気づかれないまま忘れられてしまった、なんてレコードはいくらでもあるだろ?それと同時に、基本的には まったくのゴミ音楽なのに、ものすごい枚数を売ったレコードってのもいくらだって存在する。だから、僕にはレコードの売り上げとその作品の質との関連性、 それが見えないんだよ。

でまあ、正直な話、どちらかと言えば人々にリーチしたいし、僕の作品を人々に聴いてもらいたいね。我々の周りで起きている様々なことに対して音楽は有用な 評論を提供するものだ、僕はそう思っているし、と同時に自分の音楽が、人々がもっと批評的、かつ覚醒して意識的になる、その助けになればいいなとも思う。 その作品の中で音楽的にどんなことが起きているか、その点に意識的になるってだけではなくで、もっと広い意味で、社会的にでも、あるいは政治的にってこと でもいいんだけど、何が起きているかを意識してほしい、目を覚ましてほしいっていう。というわけで、自分がもっとレコードを売れれば売れるほどベターだっ ていうね。これは本当に。

ーはい。

それにさ、僕だってなんらかの方法で生計を立てていかなくちゃいけない、それは現実としてあるわけで。自分のレコードがまったく売れなかったら、僕 は音楽をやることすらできなくなってしまう。単純な、それが現実なんだよ。うん、悲しいけど本当のことだし、そういう事態にならなければいいとは思うよ。 ただ、今のこの時代、そして現行の経済システムにおいて、僕が作りたいと思う音楽を作るために僕に支援金を供与してくれるような、そんな政府や行政機関は どこにも存在しない。まったく残念な話だけどそういうものなんだ。だから僕はどうにかして稼がなくちゃいけないし、人々がもっと僕のレコードを聴いてくれ れば、それだけ僕が音楽活動を維持していくことにも繫がる。僕は別に金儲けに執着しちゃいないけど、自分の音楽を聴く人が減るというよりも、その数がもっ と増えるって考え方、僕にはそっちの方が好ましい。っていうのも、僕は自分のやっていることを信じているし、自分の音楽が発する声明には説得力があると 思ってもいる。そういうステートメントだから、やっぱりできるだけ多くの人間に聴いてもらいたいんだよ。

ーなるほど。

その意味で「もっとレコードを売る」ことに違和感はないし、別に構わない。レコードが売れるというのは、イコール、僕が自分自身のミュージシャンとしての活動に資金を投入し続けられるって意味だから。

ーそうすれば自主性を守ることもできるでしょうしね。

うん、そうだね。それに、自主性があれば自分は音楽的にもっと大胆になれる、だから、音楽作りにおいてもっと一か八かの賭けに出られるわけだよ。ま あ、僕は常に自分のやることの中で賭けをやってきたけども、毎回リスクを伴う賭けに出て失敗作ばかり作っていたら最終的に自分の首を締めることになる、活 動を続けられなくなってしまう。だからレコードが売れるってのは良いことだ、と。

ーコマーシャル性とアートとしてのリスクのバランスをとろう、と。

っていうか、僕はこれまで売れ線の音楽を目指してレコードを作ったことは一度もないんだよ。商業面での成功を狙ってレコードを作るとか、あるいはそ の作品の中に意図的にコマーシャルな成功って要素を盛り込もうとする、そういうことはやったことがなくて。ただ、それでも自分の作品がある程度の成功を収 めるとしたら、それは悪かろうはずがない、と。というのも、売れることでその後も活動を続けられるわけだからね。ほんと、そういうシンプルな話なんだよ。 ただ、その一方でまた、自分が商業的にヒットするような作品を作ろうとすることはないだろう。ってのも、売れそうな要素をその作品の中にあらかじめ組み込 む、そういうやり方が良い音楽の作り方だとは自分には思えなくてね。誰かがオーディエンスの求める要素を計算して作った音楽ってのは、自分の耳には「狙っ た」音楽だと響くし、僕はそういうサウンドを不快に感じる。僕には押し付けがましい音と響くし、かつ、作り手が人々やリスナーたちの反応を色々と憶測して いるような音楽に聞こえる。僕はそういうことはしたくないし、だから、僕はリスナーに自主的に作品を評価してもらいたいんだ。聴き手はどう感じるだろう か?なんて、あれこれと推し測ったり仮定したくないんだよ。

ーなるほど。

だからほんと、それって「僕の音楽は聴き手に思考や反応を促すためのプラットフォーム/環境だ」、そういう概念に近いんだよね。だからなんだよ、僕が確信を持って作品を出せるのは。ってのも、自分の作品はそういうものだと信じているし、実際そういうものだから。

ー通訳:それはあなたにとっての音楽の果たす「役割」のひとつなのかもしれないですね。そうやって人々にもっとクリエイティブになり、自分の頭で考えることを促すっていう。もちろん、あなたが偉そうに人々に教えを垂れてるって意味ではないですけど。

ああ、だけど、もしも自分が人々に向けて教えていたとしたら、まず最初に彼らに言うのは「”自分が聴きたいのはなにか”を考えろ」ってことだろう ね。リスナーや商業的なサクセス、マーケットのことだのは一切考えずに、とにかく自分のやりたいと思ったことを最大限の確信とともにやってみよう、それだ と思う。ってのも、そうやってみた上で失敗したとしても、少なくとも自分のやりたいようにやったんだから、枕を高くして眠れるわけだよね?うん、実はそこ が一番大事な点なのかもしれないな、良心ってこと。心にやましいところがない、少なくとも自分は間違ったことをやってないぞ、ということ。

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