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  • 3 5 つ星中
  • 映画
  • ホラー映画

ホラー映画『ゲット・アウト』は、映画『ゼイリブ』などで知られる、監督ジョン・カーペンターが 思わずほくそ笑んでしまいそうな魅力ある作品だ。観客に死の恐怖を与えるのではなく、実社会で埋もれつつある人種間の緊張を戯画化したユニークなストーリーが展開する。人によっては、少し期待はずれだと感じるかもしれない。 劇中では、黒人にとって白人のガールフレンドの両親に会うことは、躊躇(ちゅうちょ)してしまう部分がある、ということに少し執着している。 若いカメラマンのクリス(ダニエル・カルーヤ)は間違いなくローズ(アリソン・ウィリアムズ)を愛しているが、それでも人里離れた彼女の両親の屋敷への訪問は彼を不安にさせる。往路の途中で起こった、突然飛び出してきた鹿との衝突事故もクリスのささくれだった神経を逆撫でし、シカが死に際に彼を見つめる視線はあたかも警告を与えているかのようであった。 クライマックスに至るまでの展開は、観客にいつまでも観ていたいと思わせるほど切れ味が良い。不自然なほどに愛想の良い2人の大人(キャサリン・キーナー、ブラッドリー・ウィットフォード)の登場や、セリフの言い回しを通して、リベラルな白人の特権を滑稽に描き出している。その一方で、黒人使用人への、ローズの両親の寛大さと、クリス自身の独立心の葛藤を繊細に描き出している。 脚本と監督を務めたのは、コメディ・セントラルチャンネルのエッセンスが詰まっていた番組『キー&ピール』のジョーダン・ピールだ。彼の野心的なデビュー作品に拍手喝采したいところだが、彼が培ってきた技術は映画では失われている。『キー&ピール』全盛期の作品の多くは『シャイニング』などのパロディ作品に見られるように、そのものがミニチュアの悪夢のようだった。一方『ゲット・アウト』ではストーリー上の秘密の明かし方がやや大雑把で、観客はいつもならばピールが巧妙に用意する、壮大な自己負罪的なコメンタリーを待ちぼうけることになる。完璧なピール作品の完成は次回作に期待したい。 原文: JOSHUA ROTHKOPF2017年10月27日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国公開公式サイトはこちら

LOVE【3D】
  • 3 5 つ星中
  • 映画
  • ドラマ

映画『アレックス』、『エンター・ザ・ボイド』などを手がけたギャスパー・ノエ監督が、3Dでセックスを映し出す映画『LOVE【3D】』を完成させた。あらゆる性描写に溢れる、エロティックな作品だ。卑猥な台詞、隣人との関係を描くストーリーなど、ポルノ映画が持つ欠点も多く見られる。ギャスパー・ノエ監督は、露骨な挿入までは描くことを避けているが、出演者たちが実際に激しいセックスをしていないとは想像しがたい。最終的に感じたのは、愛とは浅ましいというよりも愚かなものであり、蜜月の後には少々感傷的になるものだということだ。多くのティーンエイジャーには好まれるが、たいていの大人を呆然とさせる作品だろう。 冒頭のシーンで、パリで映画を学ぶアメリカ人の青年マーフィー(カール・グルスマン)に、恋人のエレクトラ(無名の新人アオミ・ムヨック)が手淫する場面が描かれる。その後、2人は破局を迎え、現在は太って口ひげをたくわえたマーフィーは、かつて隣人だったオミ(クララ・クリスティン)と小さな子どもと一緒に暮らしており、あまり幸せそうではないことが分かる。映画『アレックス』と同様に、過去を振り返る形式を取りながら、ドラッグ、裏切り、そして数々のセックスを経験した後に、マーフィーとエレクトラの関係は終焉を迎えたことが明かされる。本作はより頻繁に時間を飛び越え、まるで映画『ブルーバレンタイン』がパリに舞台を移し、より卑猥かつ攻撃的に描かれ、暗めの映像と過激な性描写、そして製作費をかけた3Dでの撮影を加えられているようだ。 決してギャスパー・ノエ監督を空虚なエンターテイナーとして片付けることはできない。身勝手で不穏な下降をたどる夜の雰囲気を漂わせた作品を作り上げる術を知っている稀少な監督だ。また、人間が持つ自らの運命を台無しにする自滅の力に対して敏感でもある。本作には、セックス抜きで強い印象を残すシーンも存在する。特に、マーフィーとエレクトラが歩き、会話を交わす流れで映し出される2ヶ所の長いシーン。最初は彼らのロマンスの始まりに、そして次は彼らの関係の終わりに描かれている。 しかし、監督自身がウィッグをつけてエレクトラの年上の元恋人として出演するふざけたシーンを描いたことで、あらゆる真剣な意図を台無しにしてしまったのは致命的だ。また、目に余るほどの自伝的要素が含まれており、それは観客の注意を散漫にさせ、監督の自己愛を感じさせる。大胆不敵な良作になる可能性が見えたが、所々で衝撃を与える必要性を追求したことで、その可能性が消えてしまった。 公式サイトはこちら 2016年4月1日(金)新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー © 2015 LES CINEMAS DE LA ZONE . RECTANGLE PRODUCTIONS . WILD BUNCH . RT FEATURES . SCOPE PICTURES . テキスト: DAVE CALHOUN 翻訳:小山瑠美

  • 4 5 つ星中
  • 映画
  • アクション&冒険

ジョージ・ミラーが監督した映画『マッドマックス』シリーズ第4作は終末の世界を描いたパンクな物語であり、茶会に襲いかかる竜巻のような仕上がりだ。重みの感じられない映画が溢れる時代の中、今作は、1億5,000万ドルの制作費をナミブ砂漠まで持ち逃げし、身代金をかけられた人体が切断されてハリウッドに送りつけられてきたかのようだ。 メル・ギブソン演じるマックス・ロカタンスキーが『マッドマックス/サンダードーム』で地平線の彼方に走り去ってから30年が経つが、「ロード・ウォリアー」は1日たりとも年をとっていないようだ。ギブソンのマックスは不本意ながらカリスマになっていく人物だったが、今作ではトム・ハーディが生き生きと演じている。そして、マックスが放浪する荒れ地にも多くの変化が見られる。前作までは荒廃した瓦礫の世界が舞台だったが、今回の過度なまでに飽和したカラフルな世界は、旧文明のたそがれというよりも新たな文明の幕開けに近い設定となっている。 物語は、住民を燃料のように消費する社会を牛耳る生まれながらの怪物、イモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)が支配する山あいの要塞から始まる。女性は母乳を搾り取られ、少女たちは子作りのために囲われ、マックスのような男たちは「ブラッドバッグ」と呼ばれて車の飾りにされている。当然のことながら、ジョーを補佐している片腕の将軍フュリオサ(シャーリーズ・セロン)は変革を望んでいた。彼女は囚われていた女性たちを解放して車で逃走するが、その後をイモータン・ジョー率いる命知らずの軍団に追われることとなる。そして、映画全編で狂気の死のレースが繰り広げられる。

 テリー・ギリアムの身を切るような映像宇宙と、ジェームズ・キャメロンの爆発的な壮麗さを合体させたミラーは、爽快感の連続するアクションを作り上げた。しかし、このねじれたメタル交響曲の鍵となっているのは、暴力が狂気の一種であることを忘れていない点である。ミラーの世界では人間の最も本能的な姿がさらけ出されており、抑圧される女性の姿は繰り返し語られてきたモチーフでもある。そして、セロン(フュリオサ)にハンドルを握らせることで、男臭いこのヒットシリーズを見事に新たな方向へと導いた。男が自分たち自身からの救いを求める時代に、女性による支配の必要性について神話的な描写をしているのだ。

それがマックスが不滅のヒーローとなっている理由でもある。彼は、沈む太陽に向かって走り去るべきタイミングを知っている。多くのヒット映画が彼の巻き上げた埃にむせることになるだろう。

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  • 4 5 つ星中
  • 映画
  • お笑い・漫才

若き監督デイミアン・チャゼルが、アカデミー賞を受賞した映画『セッション』に続き、『ラ・ラ・ランド』を完成させた。本作は、ロマンチックかつスタイリッシュで、果てしなく独創的な最高傑作だ。大人向けのミュージカル映画とも言える本作は大袈裟に描かれておらず、それどころか、ジャック・ドゥミ監督による映画『シェルブールの雨傘』やスタンリー・ドーネン監督による映画『雨に唄えば』にも通じるような作品が、ロサンゼルスに広がる半分夢のような世界で描かれており、ロマンチックな愛の浮き沈みをいかにもハリウッドらしい陽気な寓話として凝縮させている。恋に落ちる主人公たちを演じるのは、人気俳優の2人。ライアン・ゴズリングはジャズ純粋主義者の売れないピアニストで自分の店を持つことを夢見るセブ、エマ・ストーンは映画スタジオのカフェで働きながら女優を目指す快活なミアを演じる。冬から秋、そしてまた次の冬を迎えるまでの物語が描かれており、その間に2人は出会い、口論し、戯れ合い、恋に落ち、それぞれの情熱と恋愛の間に生じる葛藤と向き合うことになる。本作で描かれるロサンゼルスの風景は、ジャック・ドゥミ監督と画家エドワード・ホッパーの融合だと表現できるかもしれない。すべてが淡い色調で描かれ、柔らかな光や薄明かり、街灯が映し出される。セットで再現されているが、時代を越えて1950年代の雰囲気がどことなく漂う。まるでミュージカルの黄金期が、独自のタイミングで訪れているようだ。夢心地でありながら横目で劇中劇のように見つめる視点がもたらされており、デヴィッド・リンチ監督が手がけた映画『マルホランド・ドライブ』、あるいはテレンス・マリック監督が手がけた映画『聖杯たちの騎士』のような歪んだ作品に少々通じる。しかし本作は、もっとずっと楽しくて寛大な作品だ。芸術にかける情熱と陶酔するような恋愛は共存が可能であるように描かれ、歌やダンスへの転換が大真面目かつ楽しく描かれている。 公式サイトはこちら 2017年2月24日(金)より全国公開テキスト:DAVE CALHOUN翻訳:小山瑠美© GAGA Corporation. All Rights Reserved.

  • 5 5 つ星中
  • 映画
  • アクション&冒険

「笑い声に心を奪われる」。ホアキン・フェニックスの鳥が鳴くような、やすりで削るような笑い声は、ハゲタカの心を静めてくれるようなありったけの優しさをミキサーでかき混ぜたようだ。その笑い声は、最後まで頭の中で響き続ける。本作は、成熟した資本主義を映す悪夢のようなビジョンであり、社会的な意味を持つホラー映画として、おそらく映画『ゲット・アウト』以来最高の出来だろう。ジョーカー役としてのホアキン・フェニックスは、ヒース・レジャーにもほぼ匹敵するほどだ。 本作のジョーカーは完成されたキャラクターではなく、主人公のアーサー・フレックは、コメディアンとして一本立ちしたいという夢と、ゴッサム・シティの薄汚い街中での雇われピエロとしての生活との間で葛藤している。映画の演出から見ると舞台は1981年だが、作品の雰囲気は1970年代の映画『狼よさらば』に近い。主人公は病弱な母(フランシス・コンロイ)と安アパートで暮らし、マーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)がベタなセンスで司会するテレビのチャットショーに、唯一の楽しみを見いだしている。彼は薬を7種類も服用しており、神経質な状態で、時には狂ったような様子になるのだ。 作品冒頭の家庭内のシーンで、フェニックスはアーサーという人物を、敗残者というよりも、安楽死を待つだけの野良犬のような人物として確立させている。「もうひどい気分になりたくないだけなんだ」と彼は言う。彼が住んでいるのは、色彩も喜びも枯れ果ててしまったような場所で、「スーパーラット」でさえも、たまったゴミの間を通り抜けることができないようなところなのだ。監督のトッド・フィリップス(映画『アダルト♂スクール』)は、「状況が悪すぎる場所」という雰囲気を描写するのに非常に優れた仕事をしている。そこでは人々は自分の殻に閉じこもり、自分勝手にふるまっている。 アーサーがついに弾けてしまうときには、3人の銀行員が登場する、通過するトンネルにうまくストロボ効果を出した、緊張感あふれる地下鉄のシーンだ。その場面は短く、血にまみれ、危険な結果をもたらす。映画『Vフォー・ヴェンデッタ』でのガイ・フォークスのマスクのように、アーサーのピエロのメイクは抗議の表現としての意味を持ち、そして彼がジョーカーのペルソナへと変容していくとともに、彼自身も怒れる群衆の先頭に立っていくのだ。ゴッサムの有力者、トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)はドナルド・トランプとの共通性を持っている。一方ジョーカーは、どう見ても偶然生まれたポピュリストに過ぎないのではないだろうか? 映画の政治的な面はやや不透明としても、本作は黒と白の確実性の世界で展開する作品ではない。また、原作コミックのようにも感じられない。心理的なディテールは丹念に描かれており、情報は、見せびらかすことなく着実に積み重ねられている。フィリップスと彼の共作者であるスコット・シルバー(映画『エイトマイル』)の脚本は、観客の意表を突くように多大な労力を払っており、作品の主人公の頭の中に存在している。 本作は、DCユニバースにまつわるストーリーも巧みに操作している。ここでの鍵となる人物はウェイン・シニアだ。彼はフレックの母親の以前の雇用主であり、尊大な自己礼賛者だ。バットマンの熱心なファンは、ブルースの父親がこうして資本主義の性質の悪い代弁者として描かれていることに、動揺するかもしれない。しかし、実際には、『ジョーカー』はDCユニバースの中であまり多くの変更を行おうとはしていない。先の展開はどうなるだろう? ジョーカーはまだロバート・パティ

  • 5 5 つ星中
  • 映画
  • ドラマ

本作は、バリー・ジェンキンス監督が少年の成長を絶妙に描いたドラマであり、数多くの奇跡が詰まった切ない物語だ。主人公の内気なシャロン(アレックス・ヒバート)は、いじめっ子たちに追いかけられ、怯えた目で暮らす10歳の少年。彼の短い少年時代は、混乱と苦悩に満ちていた。心を許せる2人の大人(1人は麻薬ディーラーで、麻薬中毒者であるシャロンの母親に麻薬を売っていた)は、彼の両親ではなかったが、少年が「僕はオカマなの」と問いかければ伝えるべき言葉を知っていた。2008年に長編デビュー作『Medicine for Melancholy』を発表したジェンキンス監督は、スクリーン上でめったに掘り下げられることのないアフリカ系アメリカ人を取り巻く世界の問題を描き出し、詩的な言葉を用いながら、社会文化的な領域まで踏み込んでいる。本作ではマイアミの犯罪が多発する地域が描かれるが、そこは注射針が散乱する薬物の取引場所であり、安っぽいダイナーが立ち並び、夜には熱風が海岸を覆う、私たちがいつも映画で目にするようなイメージとはかけ離れた場所を映し出す。そして、内面で起こるステレオタイプに当てはまらない性的な混乱を明確に表現することで、より革命的な作品に仕上がっている。映画『ブロークバック・マウンテン』や、同性愛を描いたそのほかの作品を受け継ぐわけではなく、フランク・オーシャン(初恋相手が男性だったと告白した若手のR&Bシンガー)が刻むビートの張り詰めた不安が湧き上がるような、新しい作品がうまれたのだ。 シャロンは相変わらずいじめられて窮地に立たされる10代の少年(アシュトン・サンダース)へと成長するが、3つの時代に分けて描かれるシャロンはいずれも繊細で陰がある。これらの時代は、劇作家タレル・マクレイニーが書いた自伝的な戯曲『月の光の下で、美しいブルーに輝く(In Moonlight Black Boys Look Blue)』が原案となっており、それぞれの時代による制限を取り外し、劇的な場面によってフランソワ・トリュフォーに通じる感動を描いている。また、サメのように旋回するいじめっ子に合わせてカメラが回転するシーンでは、終わりのないサイクルを示唆する悪循環を恐ろしいまでに表現していた。最後の時代では、シャロンはかつての男友達(アンドレ・ホーランド)と再会を果たし、ジュークボックスからはロマンチックな曲が流れだす。この章では、戯曲では描かれないエピソードが展開する。本作では、成長に伴う痛みをこらえ、それが硬化した傷跡と個人的な抱擁へと変わる物語が描かれていた。この映画こそが、我々が映画を観る理由なのだ。できれば他者に寄り添いながら、理解し、近づき、心を痛めるために……。公式サイトはこちら原文:JOSHUA ROTHKOPF翻訳:小山瑠美2017年3月31日(金)TOHOシネマズシャンテほかにて全国ロードショー配給:ファントム・フィルム© 2016 A24 Distribution, LLC

BPM ビート・パー・ミニット
  • 4 5 つ星中
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死ではなく生としてのセックスと向き合う本作は、1990年代初頭のパリを舞台に、エイズ活動家団体「アクトアップ(ACT UP)」の議論や抗議運動が描かれる。毎週行われる定例ミーティングや、『ゲイ・プライド・アワード』をはじめ、製薬会社のオフィスや学校の校庭、あるいは政治家のスピーチの最中に行われる過激な行動を通して、彼らの活動を追っていく。本作は大衆のドラマであり、集団の団結についてたくみに描写している。物語は、仲間のナタン(アルノー・ヴァロワ)と恋に落ちる、グループの中心的な存在であるショーン(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)に焦点が当てられる。その後ショーンは、自身の診断結果と死にゆく運命を受け入れることになるのだ。脚本と監督を務めるのは、2008年のパルムドール受賞作『パリ20区、僕たちのクラス』で共同脚本を務めたロバン・カンピヨ。同作の教室でいきいきとした議論が行われるシーンを覚えているならば、砕けた雰囲気で活発な議論が交わされる集会の様子には馴染みがあるだろう。『BPM ビート・パー・ミニット』は、議論と集団行動を映し出し、社会運動での画期的な出来事を称賛し、活動を思い出すためのアンサンブルのような作品になっている。決して退屈ではなく、 活力に満ちた集団の物語で、彼らのユーモアが避けられない死の行進を明るくしている。音楽を手がけたのは、エレクトロ ロック ユニット、ブラック・ストロボのメンバーアルノー・レボティーニだ。登場人物からインスピレーションを受けて制作された楽曲から、猛烈なまでに前へと進もうとする勢いが感じられる。その前進は、哀悼と喪失の重みによって足かせを掛けられ、減速することもある。上昇の後に下降があり、肩を落とすことは、適切で真実らしく感じた。個人的な場面が秀逸に描かれており、ショーンとナタンのセックスシーンは美しく描かれている。終盤には繊細で感動的な物語が描かれており、政治闘争とは結局、愛と生死に関わるものだということを思い出させてくれた。 原文:: DAVE CALHOUN 翻訳:小山瑠美2018年3月24日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町などにて全国公開 公式サイト

  • 5 5 つ星中
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ポール・トーマス・アンダーソンの作品では、邪神たちが颯爽(さっそう)と歩く。強欲な石油業者や、巨根のポルノスター、新興宗教の教祖、古くさい嘘をつく賭博師らだ。本作は、アンダーソンが監督と脚本を務めた魅力的な恋愛映画だが、真の神、少なくとも高い場所に君臨する者について描かれていた。 レイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は、1950年代ロンドンのオートクチュールの世界で中心的な存在だった。細腰の上流階級の女性たちのドレスを作り出す仕立屋は、全神経を集中し、ほぼ完全な静寂の中で、自分の仕事に従事していた。レイノルズは「朝食に費やす動作が多すぎる!」と恐ろしいほど厳格に叫ぶ。彼が新たなミューズとして地味なウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)を求めたときに、観客は彼女に代わって縮み上がるはずだ。 アルマがこの耐え難い気味の悪い男と徐々に形勢を逆転していくのを見るのは、本当に楽しい。その展開は極限まで隠されるが、それまではわずかな戯れや、スポーツカーに乗って猛スピードで運転するようなスリル、優雅な衣装、レイノルズが身体を消耗品に変える儀式化などに夢中になる。映画『インヒアレント・ヴァイス』を手掛けたアンダーソンにしては、真っ当で立派すぎるかもしれない。一方で、ジョニー・グリーンウッドによる繊細なピアノ音楽は、チェロの音色が力強くなり、雰囲気はどんどん暗くなっていく。 アンダーソンが力の振り子を揺らす振り幅が、これまでの彼の監督業における最も楽しい部分を象徴していた。独占欲の強いレイノルズの妹、シリル(マイク・リー作品の常連であるレスリー・マンヴィルが、口をゆがめて小意地が悪く演じる)の視線が突き刺さり、物語の要点となる最も使い古された手法として毒キノコのスープが登場する。本作は、お互いの引き合いを加熱状態に陥らせる相互確証破壊という、非常に珍しいテーマを追求しているからだ。 本作では、強迫観念に取りつかれたアーティストと従順なミューズによる典型的な様式を、共謀した歓喜へと変える心理的な駆け引き、破滅的な孤独、結婚生活において口論する現実が描かれているが、ここでは十分に語り尽くせない。結局のところ、強情に仕組まれた危険要素によって傷付けられた、奇妙な結婚のイメージについて語られている。マックス・オフュルスの名作、あるいは全盛期のベルナルド・ベルトルッチの作品と同様に、本作に漂う雰囲気は完璧だとしても、映画『ローズ家の戦争』のように破壊的な問題に向き合わなくてはならず、ブラックコメディの要素を感じる。色気があり、愚かで、素晴らしく、究極の恋愛のような作品に仕上がっていた。  原文:JOSHUA ROTHKOPF翻訳:小山瑠美 公式サイトはこちら 2018年5月26日(土)公開

  • 4 5 つ星中
  • 映画
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実在の人物であるヘッジファンドマネージャーのマイケル・バーリ(クリスチャン・ベールがアスペルガー症候群に近い強烈な演技を見せる)は、オフィスでヘヴィメタルを爆音で鳴らしながら、返済の見込みの少ない住宅ローンに関して膨大な資料を分析している。劇中でナビゲーターの役目も務めるジャレッド・ベネット(ライアン・ゴズリングが興奮状態で演じる)は、エグゼクティブ専用トイレに立ち寄り、同僚に対して大声で叫ぶ。投資コンサルタントのマーク・バウム(スティーブ・カレル)は、より忍耐強いニューヨーカーたちからタクシーを横取りし、高圧的な雰囲気で行われるはずのミーティングへと急ぐ。本作では、この男たちがある種のヒーロになる。2008年のアメリカで起こった金融破綻を、彼らのようなごく一部の人間だけが数年前に予見していた。この不愉快極まりない集団を中心に、ストーリーは構築される。原作は、2010年にマイケル・ルイスが発表したベストセラー小説『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち』。同作にも描かれているが、彼らは銀行に対して大きな賭けに出て、何10億ドルもの年金や貯金は、はかなくも消え失せてしまう。 まるでギリシャ神話に登場する孤立した悲劇の預言者のような熱狂に、観客は飲み込まれてしまう。そして、エコロジー意識の高いトレーダーを演じる髭面のブラッド・ピットによって、無数の人々の生活が破滅させられるのだ。映画『俺たちニュースキャスター』などを手がけたアダム・マッケイ監督は、この題材について過去に扱ってきたどの監督よりも、金融危機をエゴの悲鳴だと捉えている。劇中に登場するエージェントは多数の住宅を貧困層のストリッパーに売りつけて、今やストリッパーとワニは使われていないプールで暮らす。監督のおどけたユーモアは、スタンリー・キューブリック監督による映画『博士の異常な愛情』にも通じるものがある。世界経済の破綻が痛快に描かれているが、これは実際に起きたことだ。アイデアが曖昧な部分も見られるが、世紀の犯罪を充分楽しめるエンターテインメントとして描かれており、彼らがその一世一代の大勝負に勝利したことを知らしめている。   公式サイトはこちら   2016年3月4日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー   (C)2015 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.      テキスト: JOSHUA ROTHKOPF 翻訳:小山瑠美