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  • 3 5 つ星中
  • 映画
  • ホラー映画

ホラー映画『ゲット・アウト』は、映画『ゼイリブ』などで知られる、監督ジョン・カーペンターが 思わずほくそ笑んでしまいそうな魅力ある作品だ。観客に死の恐怖を与えるのではなく、実社会で埋もれつつある人種間の緊張を戯画化したユニークなストーリーが展開する。人によっては、少し期待はずれだと感じるかもしれない。 劇中では、黒人にとって白人のガールフレンドの両親に会うことは、躊躇(ちゅうちょ)してしまう部分がある、ということに少し執着している。 若いカメラマンのクリス(ダニエル・カルーヤ)は間違いなくローズ(アリソン・ウィリアムズ)を愛しているが、それでも人里離れた彼女の両親の屋敷への訪問は彼を不安にさせる。往路の途中で起こった、突然飛び出してきた鹿との衝突事故もクリスのささくれだった神経を逆撫でし、シカが死に際に彼を見つめる視線はあたかも警告を与えているかのようであった。 クライマックスに至るまでの展開は、観客にいつまでも観ていたいと思わせるほど切れ味が良い。不自然なほどに愛想の良い2人の大人(キャサリン・キーナー、ブラッドリー・ウィットフォード)の登場や、セリフの言い回しを通して、リベラルな白人の特権を滑稽に描き出している。その一方で、黒人使用人への、ローズの両親の寛大さと、クリス自身の独立心の葛藤を繊細に描き出している。 脚本と監督を務めたのは、コメディ・セントラルチャンネルのエッセンスが詰まっていた番組『キー&ピール』のジョーダン・ピールだ。彼の野心的なデビュー作品に拍手喝采したいところだが、彼が培ってきた技術は映画では失われている。『キー&ピール』全盛期の作品の多くは『シャイニング』などのパロディ作品に見られるように、そのものがミニチュアの悪夢のようだった。一方『ゲット・アウト』ではストーリー上の秘密の明かし方がやや大雑把で、観客はいつもならばピールが巧妙に用意する、壮大な自己負罪的なコメンタリーを待ちぼうけることになる。完璧なピール作品の完成は次回作に期待したい。 原文: JOSHUA ROTHKOPF2017年10月27日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国公開公式サイトはこちら

  • 4 5 つ星中
  • 映画
  • アクション&冒険

ジョージ・ミラーが監督した映画『マッドマックス』シリーズ第4作は終末の世界を描いたパンクな物語であり、茶会に襲いかかる竜巻のような仕上がりだ。重みの感じられない映画が溢れる時代の中、今作は、1億5,000万ドルの制作費をナミブ砂漠まで持ち逃げし、身代金をかけられた人体が切断されてハリウッドに送りつけられてきたかのようだ。 メル・ギブソン演じるマックス・ロカタンスキーが『マッドマックス/サンダードーム』で地平線の彼方に走り去ってから30年が経つが、「ロード・ウォリアー」は1日たりとも年をとっていないようだ。ギブソンのマックスは不本意ながらカリスマになっていく人物だったが、今作ではトム・ハーディが生き生きと演じている。そして、マックスが放浪する荒れ地にも多くの変化が見られる。前作までは荒廃した瓦礫の世界が舞台だったが、今回の過度なまでに飽和したカラフルな世界は、旧文明のたそがれというよりも新たな文明の幕開けに近い設定となっている。 物語は、住民を燃料のように消費する社会を牛耳る生まれながらの怪物、イモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)が支配する山あいの要塞から始まる。女性は母乳を搾り取られ、少女たちは子作りのために囲われ、マックスのような男たちは「ブラッドバッグ」と呼ばれて車の飾りにされている。当然のことながら、ジョーを補佐している片腕の将軍フュリオサ(シャーリーズ・セロン)は変革を望んでいた。彼女は囚われていた女性たちを解放して車で逃走するが、その後をイモータン・ジョー率いる命知らずの軍団に追われることとなる。そして、映画全編で狂気の死のレースが繰り広げられる。

 テリー・ギリアムの身を切るような映像宇宙と、ジェームズ・キャメロンの爆発的な壮麗さを合体させたミラーは、爽快感の連続するアクションを作り上げた。しかし、このねじれたメタル交響曲の鍵となっているのは、暴力が狂気の一種であることを忘れていない点である。ミラーの世界では人間の最も本能的な姿がさらけ出されており、抑圧される女性の姿は繰り返し語られてきたモチーフでもある。そして、セロン(フュリオサ)にハンドルを握らせることで、男臭いこのヒットシリーズを見事に新たな方向へと導いた。男が自分たち自身からの救いを求める時代に、女性による支配の必要性について神話的な描写をしているのだ。

それがマックスが不滅のヒーローとなっている理由でもある。彼は、沈む太陽に向かって走り去るべきタイミングを知っている。多くのヒット映画が彼の巻き上げた埃にむせることになるだろう。

LOVE【3D】
  • 3 5 つ星中
  • 映画
  • ドラマ

映画『アレックス』、『エンター・ザ・ボイド』などを手がけたギャスパー・ノエ監督が、3Dでセックスを映し出す映画『LOVE【3D】』を完成させた。あらゆる性描写に溢れる、エロティックな作品だ。卑猥な台詞、隣人との関係を描くストーリーなど、ポルノ映画が持つ欠点も多く見られる。ギャスパー・ノエ監督は、露骨な挿入までは描くことを避けているが、出演者たちが実際に激しいセックスをしていないとは想像しがたい。最終的に感じたのは、愛とは浅ましいというよりも愚かなものであり、蜜月の後には少々感傷的になるものだということだ。多くのティーンエイジャーには好まれるが、たいていの大人を呆然とさせる作品だろう。 冒頭のシーンで、パリで映画を学ぶアメリカ人の青年マーフィー(カール・グルスマン)に、恋人のエレクトラ(無名の新人アオミ・ムヨック)が手淫する場面が描かれる。その後、2人は破局を迎え、現在は太って口ひげをたくわえたマーフィーは、かつて隣人だったオミ(クララ・クリスティン)と小さな子どもと一緒に暮らしており、あまり幸せそうではないことが分かる。映画『アレックス』と同様に、過去を振り返る形式を取りながら、ドラッグ、裏切り、そして数々のセックスを経験した後に、マーフィーとエレクトラの関係は終焉を迎えたことが明かされる。本作はより頻繁に時間を飛び越え、まるで映画『ブルーバレンタイン』がパリに舞台を移し、より卑猥かつ攻撃的に描かれ、暗めの映像と過激な性描写、そして製作費をかけた3Dでの撮影を加えられているようだ。 決してギャスパー・ノエ監督を空虚なエンターテイナーとして片付けることはできない。身勝手で不穏な下降をたどる夜の雰囲気を漂わせた作品を作り上げる術を知っている稀少な監督だ。また、人間が持つ自らの運命を台無しにする自滅の力に対して敏感でもある。本作には、セックス抜きで強い印象を残すシーンも存在する。特に、マーフィーとエレクトラが歩き、会話を交わす流れで映し出される2ヶ所の長いシーン。最初は彼らのロマンスの始まりに、そして次は彼らの関係の終わりに描かれている。 しかし、監督自身がウィッグをつけてエレクトラの年上の元恋人として出演するふざけたシーンを描いたことで、あらゆる真剣な意図を台無しにしてしまったのは致命的だ。また、目に余るほどの自伝的要素が含まれており、それは観客の注意を散漫にさせ、監督の自己愛を感じさせる。大胆不敵な良作になる可能性が見えたが、所々で衝撃を与える必要性を追求したことで、その可能性が消えてしまった。 公式サイトはこちら 2016年4月1日(金)新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー © 2015 LES CINEMAS DE LA ZONE . RECTANGLE PRODUCTIONS . WILD BUNCH . RT FEATURES . SCOPE PICTURES . テキスト: DAVE CALHOUN 翻訳:小山瑠美

  • 4 5 つ星中
  • 映画
  • お笑い・漫才

若き監督デイミアン・チャゼルが、アカデミー賞を受賞した映画『セッション』に続き、『ラ・ラ・ランド』を完成させた。本作は、ロマンチックかつスタイリッシュで、果てしなく独創的な最高傑作だ。大人向けのミュージカル映画とも言える本作は大袈裟に描かれておらず、それどころか、ジャック・ドゥミ監督による映画『シェルブールの雨傘』やスタンリー・ドーネン監督による映画『雨に唄えば』にも通じるような作品が、ロサンゼルスに広がる半分夢のような世界で描かれており、ロマンチックな愛の浮き沈みをいかにもハリウッドらしい陽気な寓話として凝縮させている。恋に落ちる主人公たちを演じるのは、人気俳優の2人。ライアン・ゴズリングはジャズ純粋主義者の売れないピアニストで自分の店を持つことを夢見るセブ、エマ・ストーンは映画スタジオのカフェで働きながら女優を目指す快活なミアを演じる。冬から秋、そしてまた次の冬を迎えるまでの物語が描かれており、その間に2人は出会い、口論し、戯れ合い、恋に落ち、それぞれの情熱と恋愛の間に生じる葛藤と向き合うことになる。本作で描かれるロサンゼルスの風景は、ジャック・ドゥミ監督と画家エドワード・ホッパーの融合だと表現できるかもしれない。すべてが淡い色調で描かれ、柔らかな光や薄明かり、街灯が映し出される。セットで再現されているが、時代を越えて1950年代の雰囲気がどことなく漂う。まるでミュージカルの黄金期が、独自のタイミングで訪れているようだ。夢心地でありながら横目で劇中劇のように見つめる視点がもたらされており、デヴィッド・リンチ監督が手がけた映画『マルホランド・ドライブ』、あるいはテレンス・マリック監督が手がけた映画『聖杯たちの騎士』のような歪んだ作品に少々通じる。しかし本作は、もっとずっと楽しくて寛大な作品だ。芸術にかける情熱と陶酔するような恋愛は共存が可能であるように描かれ、歌やダンスへの転換が大真面目かつ楽しく描かれている。 公式サイトはこちら 2017年2月24日(金)より全国公開テキスト:DAVE CALHOUN翻訳:小山瑠美© GAGA Corporation. All Rights Reserved.

  • 5 5 つ星中
  • 映画
  • お笑い・漫才

映画『フランシス・ハ』『20センチュリー・ウーマン』などで知られる女優のグレタ・ガーウィグが監督と脚本を務めた本作は、女同士の絆に敏感な女子の青春時代を描いた私的な物語だ。魅力的なまでに自由な若きリズムで羽ばたいている。ガーウィグが監督を務めるのは2作目だが、彼女にはカメラの裏側でさらに活躍してほしいと思わせる作品である。さらに、女優のシアーシャ・ローナンの魅惑的な演技によって高められ、高校生活最後の年という刺激的で混乱した時期の物語を巧みに描いている。主人公は、カトリック系の女子高で最終学年を過ごす、反抗的で頑固なクリスティン・“レディ・バード”・マクファーソン(ローナンが型破りで無秩序なキャラクターに徹している)だ。時代は2002年。9.11同時多発テロ事件が起こったばかりで、イラク戦争の緊張が高まり、携帯電話がスマートフォンに進化して10代の生活がより一層複雑になる前の頃である。レディ・バードは、頑固な母親マリオン(ローリー・メトカーフ)と口論し、気立ての良い親友ジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)と怠けて過ごし、閉塞感のある故郷サクラメントから離れたリベラルな東海岸の大学に進学することを夢見る日々を送っていた。そんな彼女の計画は、とくに父親のラリー(トレイシー・レッツ)が失業した後には、中流階級の家族が抱える経済的な問題とは無関係のように描かれる。本作は、女性の成長を痛快に描く映画として、映画『ミニー・ゲッツの秘密』と『スウィート17モンスター』の仲間入りを果たしている。不格好なガラケーや、バラード『クライ・ミー・ア・リヴァー』の組み合わせ程度のわずかなノスタルジアで、近年という時代を表現していた。思慮深く、寛容で、脇役に呼吸して成長する余地を与える貴重な合唱曲のような本作では、恋愛対象の2人(ルーカス・ヘッジズとティモシー・シャラメ)と、楽観的な修道女(ベテラン女優のロイス・スミス)の好演も光る。母親と娘、忘れることはない少女時代を過ごした故郷にささげる愛のオードのような作品だ。原文:TOMRIS LAFFLY翻訳:小山瑠美2018年6月1日全国公開公式サイト

ウィッチ
  • 5 5 つ星中
  • 映画
  • ホラー映画

映画『ウィッチ』は、アメリカ人監督ロバート・エガース(Robert Eggers)が難解な分野に臆することなく挑戦し作り上げた、刺激的かつ不気味な長編デビュー作だ。清教徒に伝わる残酷な民話をベースにしており、セリフの大半は17世紀の書物からそのまま引用されている。本作は、大胆に観客の不安を煽る、近年まれに見る実に不気味なホラー映画だ。物語の舞台は1930年のニューイングランド。敬けんな清教徒の一家がイギリスからニューイングランドへ移り住んでいたが、宗教上の信念の違いに対する処罰としてその地を追われることになる。その結果、邪悪な森のそばに広がる荒れ地での生活が始まることに。新天地ですでに除け者にされていた木こりのウィリアム(ラルフ・アイネソン)だが、妻(ケイト・ディッキー)と5人の子どもたちと、新たな人生を始めるために厳しい自然や荒れ地と闘いながら孤軍奮闘する。しかし、子どもたちが生活に慣れて神とのつながりを再び得る前に、乳児が超自然的な速さで森のなかに連れ去られてしまうのであった。大半の映画では、そこから観客との控えめな戯れが始まり、フィナーレまで恐怖と不協和音に満ちた音楽を背景に怪物が現れるだろう。本作では、急に恐怖が襲いかかるようなシーンはほとんど存在しない。スイス製時計のように精巧に計算され、観客を引き付けることと疲労させることは大きな相違があると理解している。作中で絵画的に描かれる魔女がしわだらけの裸体を晒(さら)す姿は、まるで画家フランシスコ・デ・ゴヤによる作品『我が子を食らうサトゥルヌス』のようであった。低予算で奇跡を起こす美術監督でもあるエガース。素晴らしい技術をまだ隠し持っているかもしれないが、作品を通して存分に才能を知らしめている。 本作ではスタンリー・キューブリックが持つ厳格さと、ニコラス・ローグ(映画『地球に落ちて来た男』など)が持つ性心理的な信念による不道徳な融合のようなものが描かれていく。ラルフ・アイネソン(Ralph Ineson)とケイト・ディッキー(Kate Dickie)は、疑心暗鬼になって子どもへの愛が薄らいでいく、欠陥を持った(役立たずですらある)両親として苦悩する。長男役のハービー・スクリムショウ(Harvey Scrimshaw)は取り憑かれた演技を披露し、思春期の姉を演じるアニヤ・テイラー=ジョイ(Anya Taylor-Joy)は天啓にうたれながら、悪魔が彼女の身体の中心からねじり出てくるかのように皮膚を泡立たせ、血まみれになっていた。 エガースは厳格かつ緊密に物事を描きながら、様々な光景や言葉から新しいテーマを提示し、怪物と心を通い合わせるような宗教的な熱情を円滑に描き出していた。曖昧な表現をしながらも、視聴者から敬遠されるのを抜かりなく避けている。登場人物への審判は、天から下ることはない。その代わりに、罪を負わずに生きたいという衝動がいかに潤滑油になりうるかということを熟考している。近年センセーションを起した映画『キル・リスト』や『ババドック~暗闇の魔物~』に並ぶホラー映画史における重要作だと言えるだろう。 原文:DAVID EHRLICH 翻訳:小山瑠美 2017年7月22日(土)新宿武蔵野館ほか全国順次公開 公式サイトはこちら 配給:インターフィルム ©2015 Witch Movie,LLC.All Right Reserved.

  • 5 5 つ星中
  • 映画
  • ドラマ

本作は、バリー・ジェンキンス監督が少年の成長を絶妙に描いたドラマであり、数多くの奇跡が詰まった切ない物語だ。主人公の内気なシャロン(アレックス・ヒバート)は、いじめっ子たちに追いかけられ、怯えた目で暮らす10歳の少年。彼の短い少年時代は、混乱と苦悩に満ちていた。心を許せる2人の大人(1人は麻薬ディーラーで、麻薬中毒者であるシャロンの母親に麻薬を売っていた)は、彼の両親ではなかったが、少年が「僕はオカマなの」と問いかければ伝えるべき言葉を知っていた。2008年に長編デビュー作『Medicine for Melancholy』を発表したジェンキンス監督は、スクリーン上でめったに掘り下げられることのないアフリカ系アメリカ人を取り巻く世界の問題を描き出し、詩的な言葉を用いながら、社会文化的な領域まで踏み込んでいる。本作ではマイアミの犯罪が多発する地域が描かれるが、そこは注射針が散乱する薬物の取引場所であり、安っぽいダイナーが立ち並び、夜には熱風が海岸を覆う、私たちがいつも映画で目にするようなイメージとはかけ離れた場所を映し出す。そして、内面で起こるステレオタイプに当てはまらない性的な混乱を明確に表現することで、より革命的な作品に仕上がっている。映画『ブロークバック・マウンテン』や、同性愛を描いたそのほかの作品を受け継ぐわけではなく、フランク・オーシャン(初恋相手が男性だったと告白した若手のR&Bシンガー)が刻むビートの張り詰めた不安が湧き上がるような、新しい作品がうまれたのだ。 シャロンは相変わらずいじめられて窮地に立たされる10代の少年(アシュトン・サンダース)へと成長するが、3つの時代に分けて描かれるシャロンはいずれも繊細で陰がある。これらの時代は、劇作家タレル・マクレイニーが書いた自伝的な戯曲『月の光の下で、美しいブルーに輝く(In Moonlight Black Boys Look Blue)』が原案となっており、それぞれの時代による制限を取り外し、劇的な場面によってフランソワ・トリュフォーに通じる感動を描いている。また、サメのように旋回するいじめっ子に合わせてカメラが回転するシーンでは、終わりのないサイクルを示唆する悪循環を恐ろしいまでに表現していた。最後の時代では、シャロンはかつての男友達(アンドレ・ホーランド)と再会を果たし、ジュークボックスからはロマンチックな曲が流れだす。この章では、戯曲では描かれないエピソードが展開する。本作では、成長に伴う痛みをこらえ、それが硬化した傷跡と個人的な抱擁へと変わる物語が描かれていた。この映画こそが、我々が映画を観る理由なのだ。できれば他者に寄り添いながら、理解し、近づき、心を痛めるために……。公式サイトはこちら原文:JOSHUA ROTHKOPF翻訳:小山瑠美2017年3月31日(金)TOHOシネマズシャンテほかにて全国ロードショー配給:ファントム・フィルム© 2016 A24 Distribution, LLC

ナイトクローラー
  • 5 5 つ星中
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  • ドラマ

テレビを観る人なら、特にローカルニュースの犯罪報道を観ているならば、流血事件や神経過敏な目撃者、報道番組は「刺激的な映像」の肥溜めと化していることに気づいているだろう。かつて映画『ネットワーク』、『ブロードキャスト・ニュース』のような作品によって予言的に描かれた内容は、いまや当然のことになっている。監督、脚本を務めたダン・ギルロイが作り上げた今作『ナイトクローラー』は、不道徳で面白い作品に仕上がっており、そのような事実を前提にしながらも、核心を突くことは賢明に避けている。その代わりに、ショッキングな映像を求める低級で熱狂的なネタ探しと、隠れたサイコパスが、予想通り、トップまで登り詰めるキャリアにおける野心を、対にしながら描いている。本作は、マーティン・スコセッシ監督による映画『タクシードライバー』、『キング・オブ・コメディ』に見られるメディアにより増幅された常軌を逸した行動を描く精神に近いものを持ちつつ、人間の異常かつ飽くなき欲求を描いている重要な作品だ。 飢えた狼のような主人公ルイスを、痩せ細ったジェイク・ギレンホールが好演しているが、彼が一般的なロサンゼルスに住む一匹狼ではないことはすぐに感じ取れるだろう。ルイスは、出っ張った目をぎらつかせ、夜間に盗品を売買しながら徘徊する生活をすることで、楽観的でありながらも挫折感を抱えていた。ある日、ハイウェイで炎上する車に救助作業が行われる場面に遭遇し、現場に群がるカメラマンたち(テレビ局にネタを持ち込み、即金を得るフリーランサー)を見かけた時に、ルイスはひらめく。自らもビデオカメラを入手し、犠牲者を車で引きそうになるほど誰よりも近い場所まで接近し、発砲事件が発生した住宅に無許可で侵入するのだ。 最初はブラックコメディの要素があるサクセスストーリーのように映る。ルイスは、自分の新たな情熱に対して(微かに狂気じみているが)優れた規律を課し、まるで駆け出しのビジネスマンのつもりでいる。馬鹿げた面接を実施した後、仕事を切望するリック(リズ・アーメッド)を「インターンシップ」として無給でアシスタントに採用する。そしてリックに、撮影中は車を見張らせて、粗野なニュース担当のディレクター(レネ・ルッソはトリッキーな役を見事に演じられる女優だ)に映像を売りさばかせる。しかし、横転事故の現場に警察よりも先にルイスが一番乗りしたときに、この作品は予想外の展開へと大きく移り変わる。ライトが上手く当たるように、ルイスは死体を移動させる。そこから底が崩れ落ち、物語はおぞましさで気分が悪くなるような倫理観のフリーフォールへと突入する。 ジェイク・ギレンホールは、キャリア最高の作品を呼び込んだが、数年前に、このキャラクターを演じることは不可能だっただろう。少年のようなハンサムさは、狡猾そうな器用さへと変化を遂げた。ほとんど強迫性障害に近い、猛烈な独白によってルイスの異常な熱意を好演し(それは観客を驚かせ、賞賛を受ける部分の一つだ)、彼が本当に危険なやり手の俳優だと証明している。また、主人公のバックグラウンドを描く意図が見られない点も良かった。ダン・ギルロイにとって初監督作であるが、ロサンゼルスに関するスペシャリストでもある撮影のロバート・エルスウィット(映画『ブギーナイツ』、『マグノリア』)による多大なサポートを受けながら、ダン・ギルロイは熟練したプロフェッショナルの素質を見せつけるように監督を務めている。リックが「なぜ他の皆と同じように、ヴィンセント・パークの強盗事件を取材しないのか」と弱音を吐くが、彼らが抱く最高に大それた夢を超

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🇬🇧 English | 🇪🇸 Català | 🇫🇷 Français | 🇯🇵 日本語 | 🇰🇷 한국 언 | 🇵🇹 Portugés | 🇷🇺 Русский | 🇪🇸 Español | 🇹🇭 ไทย | 🇹🇷 Türkçe ある場所がその美しさや歴史によって知られている場合、それはランドマークと呼ばれる。しかし、食事と冷えたコカ・コーラを中心とする象徴的な瞬間で知られる場所は、ランドマークに似ているが、より満足度の高い「Foodmark(フードマーク)」としか言いようがない。 150年近くにわたり、コカ・コーラは世界中の食卓で親しまれてきた。デリーの屋台から、マンハッタンの白いテーブルクロスの上まで、セレブリティを含め、多くの人々に愛されている。コカ・コーラは世界共通なのだ。 Photograph provided by Coca-Cola   今も昔も、おいしい食べ物とコカ・コーラが組み合わさった瞬間は、単なる食事ではなく、「魔法のレシピ」へと姿を変える。1957年、マリリン・モンローはカートの前に立ち、ホットドッグを食べながらコカ・コーラを飲んだ。リオでは、ブラジルの伝説的ロック歌手(そして有名な美食家)カズーザが、ライブの後でお腹が空いていた時に、ボヘミアンなホットスポット「Pizzaria Guanabara」でピザとコカ・コーラを組み合わせた。あのハードなパーティーの夜を再現することができる。 Photograph provided by Coca-Cola   Foodmarks は、1996年の香港コメディ「食神(The God of Cookery」のように、象徴的な映画の場面からも描くことができる。今なら、スクリーンの中を通り抜け、あのおいしくて高嶺の花の肉団子を一口食べることができる。ミシュランの星付きシェフも屋台のシェフも、コカ・コーラとともに一生の思い出となるような食事を提供している。 この素晴らしい瞬間の追体験を世界中でかなえることができる。デリーでは、映画スターであり、インド全土のレストランを巡ったラージ・カプールが味わったのと同じ、ボリウッドの黄金時代を実際に味わうことができる。そしてリオでは、カズーザの音楽と食への愛を、ディナーとブラジルのロックアイコンによるライブストリーミングコンサートで体験することができる。 Photograph provided by Coca-ColaRaj Kapoor Photograph provided by Coca-ColaCazuza これらのFoodmarkイベントに加えて、世界中のインフルエンサーがユニークなFoodmarkを紹介する。これらの必食の瞬間は、Time Outが提供する「Foodmarkマップ」に追加される。Time Outはインタラクティブなウェブサイトだ。まるで魔法にかかったように、あなたが荷物をまとめて世界を旅したり、自分の街を探検したりするきっかけを与えてくれるだろう。セレブリティと同じように、インスパイアされることもあれば、人生を変えるような「Foodmark体験」ができる穴場スポットもある。 コカ・コーラのFoodmarkがマッピングされ、ひと目見て分かるようになれば、ストーリー豊かな食の世界地図が、完成するだけではない。文化の違いを超えて人々を結びつけるコカ・コーラの力、そしてコカ・コーラを特別な存在たらしめている「魔法のレシピ」がついに明らかになるということだ。

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「笑い声に心を奪われる」。ホアキン・フェニックスの鳥が鳴くような、やすりで削るような笑い声は、ハゲタカの心を静めてくれるようなありったけの優しさをミキサーでかき混ぜたようだ。その笑い声は、最後まで頭の中で響き続ける。本作は、成熟した資本主義を映す悪夢のようなビジョンであり、社会的な意味を持つホラー映画として、おそらく映画『ゲット・アウト』以来最高の出来だろう。ジョーカー役としてのホアキン・フェニックスは、ヒース・レジャーにもほぼ匹敵するほどだ。 本作のジョーカーは完成されたキャラクターではなく、主人公のアーサー・フレックは、コメディアンとして一本立ちしたいという夢と、ゴッサム・シティの薄汚い街中での雇われピエロとしての生活との間で葛藤している。映画の演出から見ると舞台は1981年だが、作品の雰囲気は1970年代の映画『狼よさらば』に近い。主人公は病弱な母(フランシス・コンロイ)と安アパートで暮らし、マーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)がベタなセンスで司会するテレビのチャットショーに、唯一の楽しみを見いだしている。彼は薬を7種類も服用しており、神経質な状態で、時には狂ったような様子になるのだ。 作品冒頭の家庭内のシーンで、フェニックスはアーサーという人物を、敗残者というよりも、安楽死を待つだけの野良犬のような人物として確立させている。「もうひどい気分になりたくないだけなんだ」と彼は言う。彼が住んでいるのは、色彩も喜びも枯れ果ててしまったような場所で、「スーパーラット」でさえも、たまったゴミの間を通り抜けることができないようなところなのだ。監督のトッド・フィリップス(映画『アダルト♂スクール』)は、「状況が悪すぎる場所」という雰囲気を描写するのに非常に優れた仕事をしている。そこでは人々は自分の殻に閉じこもり、自分勝手にふるまっている。 アーサーがついに弾けてしまうときには、3人の銀行員が登場する、通過するトンネルにうまくストロボ効果を出した、緊張感あふれる地下鉄のシーンだ。その場面は短く、血にまみれ、危険な結果をもたらす。映画『Vフォー・ヴェンデッタ』でのガイ・フォークスのマスクのように、アーサーのピエロのメイクは抗議の表現としての意味を持ち、そして彼がジョーカーのペルソナへと変容していくとともに、彼自身も怒れる群衆の先頭に立っていくのだ。ゴッサムの有力者、トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)はドナルド・トランプとの共通性を持っている。一方ジョーカーは、どう見ても偶然生まれたポピュリストに過ぎないのではないだろうか? 映画の政治的な面はやや不透明としても、本作は黒と白の確実性の世界で展開する作品ではない。また、原作コミックのようにも感じられない。心理的なディテールは丹念に描かれており、情報は、見せびらかすことなく着実に積み重ねられている。フィリップスと彼の共作者であるスコット・シルバー(映画『エイトマイル』)の脚本は、観客の意表を突くように多大な労力を払っており、作品の主人公の頭の中に存在している。 本作は、DCユニバースにまつわるストーリーも巧みに操作している。ここでの鍵となる人物はウェイン・シニアだ。彼はフレックの母親の以前の雇用主であり、尊大な自己礼賛者だ。バットマンの熱心なファンは、ブルースの父親がこうして資本主義の性質の悪い代弁者として描かれていることに、動揺するかもしれない。しかし、実際には、『ジョーカー』はDCユニバースの中であまり多くの変更を行おうとはしていない。先の展開はどうなるだろう? ジョーカーはまだロバート・パティ